どんなことを見ても内に向けて探す
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年7月7日】最近、私たちの地方では消防対策で厳しい検査が行われています。数日前、用事があって近くの商店に行ったとき、1人の城管(訳注:城市(都市)管理総合行政執法局職員)がいて、警備員も何かを確認するために店に入って行きました。彼らが何をしているのかわからなかったのですが、私は城管に対する印象が良くなかったので、私は急に嫌悪の感情がわいてきました。

 用事が終わって会社に戻ってまもなく、これらの人達が私たちの会社に来ました。リーダーは彼らが消防の安全確認をするために来たと言い、私たちに使用しているガスボンベがあるのかを聞いてきました。そのとき社長はおらず、同僚があいまいな返答をしたので、彼らは有無を言わさず強引に検査をしました。その結果、2つのガスボンベを検査して没収しました。これは私たちの会社の食堂で普段から使っているもので、彼らは同僚から社長に電話をさせました。社長は彼らと争いたくなく、それにガスボンベもそんなに高額ではないので、同僚は彼らにガスボンベを持って行ってもいいと伝えました。彼らはそれを運んでからまた付近の店に検査をしに行きました。

 このことで、私は心が落ち着かずとても不安でした。安全を検査するのは問題ありませんが、どのような理由であっても、人の家に勝手に来て、お金を払って購入したものを持って行く資格があるのか。少なくとも整備の期限をもうけるべきで、なんとモラルがないのか、これはヤクザとなんの違いがあるのだろうか? また、もし自分が社長なら彼らとどのように争うのか、彼らをどのように大人しくさせるのか、彼らに法律を話すべきか、または訴えるべきか、さらには暴力には暴力をもって対抗し、容赦なくこらしめようと思いました。頭の中が混乱し、煉功学法も静かにできず、心がひっくり返ったかのように色んな考えがわいてきました。

 この状態が2日間続き、また、今日これらの人が、他の店舗を検査するためだけに再度やって来ました。それを見てまた心が怒りで震えました。午後にちょうど付近の店に用事があって行くと、店の人がちょうどガスボンベを使っているのを見て、店の人に「城管らが、チェックしていますよ」と伝えると、店の人はすぐにガスボンベを片付けました。

 夜、家に帰ってから学法すると、心がずいぶん落ち着いて、この件について自分の考えを振り返ってみました。長年修煉しているので、当然自分が見た事は偶然ではないと分かっていて、必ず自分が向上する要素があるのです。それではこの件で私のどのような問題が明らかになったのでしょうか? 以下にまとめまてみました。

 1、利益心。没収されたのは私のものではないし、それに社長はすぐにIH調理器を出したので、私たちが食事するのに影響はありませんでした。しかし、私の心は動揺しました。なぜならこのガスボンベは約300元(約5000円)もするからです。

 2、修煉者の角度から問題を見ることができなかった。表面上から見れば、これらの人のやり方は当然間違っていますが、修煉者は高い次元から問題を見るべきで、表面上の善悪は、必ずしも本当の善悪とは限らず、そのことの因縁関係はとても複雑で、常人の角度から言えばはっきり分からず、わたしはまさに常人の角度から問題を見て、私は他の人に検査があるのを教えて、彼らがガスボンベを片付けたのは、一見すると良いことに見えますが、しかし、もしかすると悪い事をした可能性があります。ひょっとすると彼らはこの財が破壊され、この業を消去出来たが、私が関わったことで消去されず、次回に回されて一からやり直すのかもしれません。

 3、常人の情が動じた。これらの人を見て、最初に嫌悪の気持ちを抱きましたが、それはすでに間違っていて、修煉者は心が動じるべきではなく、良い悪いに関わらず常人は私たちが救う対象なのです。常人の中の良し悪し、正誤に大法は関わらず、全て私たちに関わりがなく、常人が関わるもので、それは因果応報なのです。船が沈んでも、船上の善し悪しは私たちとは無関係で、私たちがするのは、船上の人の危険を教い、船から脱出させて平安を保つことです。

 4、闘争心。私は頭の中で彼らとどのように善悪を争うかと考えて、これは闘争心なのです。闘争心の体現は至る所にあり、必ずしも1位、2位を争うものではなく、あるいは何かの職位や、物品等で争うことでもありません。私は暴力には暴力をもってと思いましたが、これは修煉者にとって、絶対に思ってはいけないことでした。なぜなら私たちの念にはエネルギーがあるからです。自分は幸いにも鍵をかけられて修煉していて、そうでなければこの心でどれだけの業を作ってしまったのかわかりません。

 自分は「視ても見ざれば迷わず惑わず」 [1]が出来ませんでした。普段自分の修煉は悪くないと思っていて、この偶然に見える、自分の切実な利益に関わらないように見えますが、自分の多くの不足を明らかにしました。常人の社会は本当に多くの修煉場で、私たちを成就させたり、引きずり下ろしたりもできます。私たちはいかにして修煉者の基準で自分を量り、対処するかが大切なのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/2/427642.html)
 
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