誰が恐れているのか?
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文/中国の青年弟子 一帆

 【明慧日本2021年7月25日】私は若い大法弟子です。両親は、私が幼い頃に法輪大法を修煉し始めました。小学1年生の時、警察官が家に来て家宅捜索を行い、両親を強制連行しました。私はこの過程をすべて目にしました。

 それ以来、両親は不法に拘束され、祖母と私だけが取り残されました。ほとんど毎晩、警察官がドアをノックし、大きな音でしばらくノックした後、後ろの窓から懐中電灯で照らしました。子供の頃にこういった体験をしたので、大人になってからも、夜にノックの音がすると心臓がドキドキしたり、他の音が聞こえても飛び上がったりしていました。その後、この恐怖に慣れてしまったのか、あまり考えなくなりました。

 大人になって働くようになりましたが、何度か会社に警察の制服を着た人が来ました。彼らは情報を登録するためにやってきていて、明らかに何の疑わしいところもなかったのですが、彼らが着ている制服を見た途端、急にすごく怖くなりました。例え何の問題も起こらないと知っていても、自分を制御できませんでした。その恐怖をはっきりと感じ取ることができ、私は非常に苦しくなりました。

 心を静めて、なぜ自分が恐れなければならないかと真剣にその原因を探しました。自分が恐れているのは、それを認めたからです。この恐れに保護の傘をさし、子供の頃の体験が原因だと思っていました。まるで、恐れていることが当たり前のようで、まるで常人が子供時代によくないことを体験したら、その人に非常に大きな影になってしまうようでした。

 私もそのように考えていました。子供の頃に迫害を受けた体験があったから怖がっていると思い、それを認めていて、だからこそそれが存在していたのです。しかし私は大法弟子であり、いつも師父に守られているのに、なぜ迫害を怖がるのでしょう?  私はそれを認めない。そう考えただけで、恐怖が一気に私から離れて行ったと感じました。

 その後、「ゼロ行動」の嫌がらせが発生し、発正念をしようとすると、この恐怖心がまたやってきたように感じ、また心が苦しくなりました。私は考えました。誰が恐れているのか? なぜ私が恐れるのか? 恐れるとはどんな気分なのか? なぜ私が苦しいのか? 私は大法弟子であり、私には邪悪を根絶することができます。ならば、恐れているのは私ではなく、邪悪が私を恐れており、それらが私が発正念をすることを恐れ、私がそれらを取り除くことを恐れているのです。

 そう思うと、私は自分が非常に高くて大きいと感じ、恐怖心は極めて小さなものに感じました。それらが私を怖がればれ怖がるほど、私はさらに強大な正念を発するべきです。

 「ゼロ行動」の嫌がらせの中、多くの大法弟子もいわゆる恐怖心が生じ、発正念を発しましたが、常にその恐怖心が残っているように感じました。自分が恐れていると認めてしまえば、恐れの輪から抜け出せなくなってしまいます。

 たとえこの恐怖感が非常にリアルで、自分の内心ではっきりと感じられたとしても、よく考えてみてください。この恐怖感は私が恐れているのではなく、邪悪が私の正念を恐れているのです。邪悪は、私がそれを根絶することを恐れているのです。観念を変えれば、その輪から出ることが可能です。外側に立って、邪悪が恐れているのを見れば、自分が受動的から能動的になり、自ら邪悪を撲滅する時の正念は限りない威力を持ち、邪悪は恐れるしかありません。

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、同修と切磋琢磨し、「比して学び、比して修す」ためです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/14/426932.html)
 
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