法輪功への迫害が始まったとき、私は13歳だった
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文/善慧

 【明慧日本2021年8月16日】私が13歳だった1999年7月に「真・善・忍」を育んできた周囲の多くの思いやりのある人々が、中国共産党当局に未曾有の迫害を受けました。20年以上の歳月が流れましたが、私が見たこと、経験したことは、私の記憶の中に深く刻まれています。この7月の思い出をいくつか紹介したいと思います。

 一、迫害の始まり

 中国共産党(以下、中共)が迫害を始めたのは、私が夏休み期間中の1999年7月のことです。私の町では、父や楊さんを含む男性修煉者が全員、鎮政府によって不当に拘束されました。ある日の午後、母が食事を用意して、華さん(楊さんの娘)と私に「父と楊さんのところに持って行ってほしい」と言いました。

 私はまだ13歳で、鎮政府に行ったこともありませんでした。灼熱の太陽の下、舗装された道路を自転車で走ったのですが、とても不安になりました。父や楊さんがどこに拘留されているのか、また、政府の人が私たちをどのように扱い、面会させてくれるのかも分かりませんでした。

 長い距離ではありませんでしたが、分からないことを考えると永遠に続くかのように感じました。自分の無力さを感じながらも、それでも気を引き締めてやっていかなければならないのです。そんな不安な中で、夏の暑さもそれほど気にはなりませんでした。

 鎮政府に着いてもどこに行けばいいのかわかりませんでした。楊さんが娘の華さんを呼ぶ声を聞いて初めて、私たちは少し安心しました。

 私たちは2階に上がり、父が拘留されていた部屋に行きました。部屋には鍵がかかっておらず、誰も父を監視していませんでした。父の姿を見ると、父はかなり驚いた様子で「なぜここにいるのか?」と聞いてきました。

 私はその言葉を聞いて少々動揺しましたが「食事を届けるために来たんだ 」と言いました。

 その年の夏、私は鎮政府への道中で、中共が仕掛けた苦難を経験しました。

 二、楊さん家族を偲ぶ

 2002年10月1日、午前3時か4時頃、警官が塀を乗り越えて私の家の庭に入り、家のドアを叩き始めました。彼らは家の中を探し、私の寝室にも入って毛布やシーツをかき回しましたが、何も見つからず、父を連行しようとしたのです。政法委員会(治安・司法などを統括する機関)の女性秘書は、偽善的に私に「大丈夫ですよ、私たちは2、3日彼らを『教育』するだけで、彼らは戻ってきますから」と言いました。

 秋も深まり、母は父の衣類の荷造りをしていました。私は母を呼び止め、政法委員会の秘書を指差して「この人は、父はすぐに戻ってくるからと言っていたので、服を持っていく必要はないです」と言いました。

 10月1日は中華人民共和国の国慶節ですが、私は中共が正式に国を掌握した「国難の日」と呼んでいます。警官が塀を乗り越えて家の庭に入り、父を連行し、幼い弟を怖がらせました。

 しばらくして母が正気に戻り「お父さんを連れて行かれては困る。私たちがどんな罪を犯したというのですか!」と言いました。私たちは「父を連れ戻したいと思い」鎮政府に向かいました。その途中、楊さんの家には鍵がかかっていて、女性用の靴が1足だけ玄関に置いてありました。

 私と母は急いで鎮政府に向かいました。政法委員会の秘書は、父は追い出されたと言い、居場所は教えてくれませんでした。

 大柄な警官が楊さんの奥さんを連れてきたとき、手錠をかけられているのが見えました。楊さんの奥さんは私の母を見ると、母を止めて家の鍵を渡しました。その時点で、楊さんはすでに一定期間拘束されていました。

 政法委員会の秘書は母の機嫌を取ろうと、楊さんの奥さんが連行された時、靴を一足しか履いていなかったので「親切に」靴を貸してあげ、さらに「心を落ち着かせて学校に行きなさい」と私に言いました。

 私は全寮制の学校に通っていたので、家に帰ってくるのは3週間に1回程度でした。3週間後に帰宅すると、同級生の母親がバス停まで迎えに来てくれました。彼女は私に「楊さんの奥さんが殴り殺された!」と言ったのです。私は涙が溢れてきましたが、皆には見られないようにしました。

 夕食の後、母は私にこう言いました。「楊さんの妻は殴り殺された」と。この時、私は涙を抑えることができず、母も私も深い悲しみに襲われ、長い間喪に服していました。

 楊さんの孫が小学校に入ると、学校は全員に中共の青年団に入ることを要求しました。孫は「私は党の青年団に入りたくありません。私の祖母は彼らに殺されたのだから」と言いました。それでも「先生に叱られた」と聞いた私は、涙が止まりませんでした。

 三、迫害を受けた私と家族

 私の叔父は法輪大法を信じており、北京で控訴し、正義を訴えました。叔父は現地で「重点人物」となりました。警官は彼の家を捜索して不当に拘束し、殴り、何度も罰金を科し、叔父は放浪生活を強いられました。叔父が家に戻ったのは、息子の結婚式の夜でした。

 息子の結婚式の翌朝、皆がまだ寝静まっている時に、県国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)の警官が部屋に入り込み、叔父を連行したのです。私たちは叔父の行方を知らず、鎮の派出所に行くと、国保の警官が横柄な態度で「私は話すことはない。出て行け」と言いました。国保のリーダーはさらに理不尽な態度で「訴えてもいいよ」と言いました。しばらく経ってから、叔父は強制労働収容所に送られ、1年間入院したことが分かりました。

 また、私の夫の父と姉も、信仰を捨てないという理由で強制労働所に送られました。姉も重要な標的とされ、迫害を受けないように各地を転々とすることを余儀なくされました。

 私たち夫婦が結婚しようとしていた頃、夫の姉が家に戻ってきました。幸いなことに、私たちは警戒心を強め、結婚の前夜に彼女を送り出しました。案の定、結婚した翌朝、鎮政府の人たちが大勢、夫の姉を探しに来ました。見つからないと「どこに住んでいるのか教えろ」と言われました。仕方がないので、夫が携帯電話で見つけた住所を適当に教えました。後になって、彼らは本当に私たちが教えた住所に行って夫の姉を探していたことがわかりました。

 中共は1999年7.20から法輪大法を迫害しています。以上は、私の記憶の中にある思い出の数々です。しかし、これらは中共がいかに邪悪で非人道的であるかを証明するには十分すぎるほどです。私は2021年7月に、これらの記憶を記録しました。これらはすべて真実であり、迫害の証拠です。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/11/428029.html)
 
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