文/中国の大法弟子 安娜
【明慧日本2021年8月23日】私は4月29日から背中の痛みを感じるようになり、歩いたり立ち上がったりするのが困難になりました。言葉では言い表せない痛みで、夜も眠れませんでした。私は師父の音声講義を聞き始めました。夫からは内に向かって探すように言われましたが、私はその必要がないと思いました。しかし夜になると私はトイレにも行けなくなり、夫に助けを求めなければなりませんでした。朝にはいつものように家事をしましたが、それでも腰が痛くなりました。私はこう思いました。どんな執着があろうと、旧勢力は私に干渉してはなりません。私の体は師父に任せます。そして第四式の功法(法輪周天法)を煉っていると、足が痛くて震えてきました。
ある日、洗濯中に背筋を伸ばすことができませんでした。痛みを否定していましたが、私は本当にこの苦難を乗り越えられるのだろうか、と涙が出てきました。そして、こんな状態でも自分が家事をするのは不公平だと心に恨みを抱くようになりました。私は普通の人のように考えてしまい、誰も私のことを気にかけてくれないのではないかという思いが頭をよぎりました。
そこへ娘が通りかかり、「大丈夫?」と声をかけてくれました。私が「あなた達が私のことを気にかけてくれていないと恨んでしまうほど痛いので、正念を発するように助けてください。私は本を持つことさえできないほど痛くて、動けないほどです」と言うと、娘は「落ち着いて、法を読んであげるわ」と答えました。
娘が法を読むのを聞いているうちに、背中の痛みが私の修煉の大きな妨げになっているのではないかと思うようになりました。私は法をきちんと学ぶことも、煉功することもできなかったですが、心の中でこの妨害を否定していました。そして夜寝ていると、お腹にお茶碗ほどの大きな塊があるのを感じました。お腹に腫瘍ができているのではないかと不安になってきました。私はこの考えを排除し、この出来事を良いことだと考えるようにしました。そして私は考えました。もし、修煉を始めたばかりの人が癌を治すことができるなら、私は何を恐れる必要があるのでしょうか? 私は20年間修煉していますが、師は私が師と法をしっかりと信じている限り、私を助けてくださいます。
修煉者は困難な時に非常に脆いものですが、私はずっと考えていました。「なぜ私はこの試練を乗り越えられないのか? いつになったら終わるのだろう?」
師は説かれました。
「多くの人が関に遭うとき、皆さんの言葉で言うと、それは「病業の関」だったり、何かの厄介なことだったりするとき、自分の執着を見つけることができず、考えても分からず、何が原因なのか分からないのです。皆さんに教えますが、大法弟子は決していい加減に対処してはいけません。間もなく乗り越えるこの関ですが、もうすぐ乗り越えそうなのに、まだある執着を取り除くことができなければ、基準に達することができず、乗り越えられないのです。修煉が良くなったら乗り越えられるのではありませんか? どうしても乗り越えられず、いつも同じところで止まっています。しかし、あの問題は大したことがなく、あの執着は大きなものではなく、非常に小さいのですが、それに気づくことができなければ、乗り越えられず、いつまでたってもそこに止まっています。これはあなたの修煉がよくできていないと言っているのではなく、あなたは真剣に考えず、これらのものが修煉に符合していないと気づいていません! 修煉者の状態に符合していなければ、修煉者としてあるまじきものであれば、それは問題なのです!」[1]
この法の一節を読んで、私はとても勇気づけられ、心が温かくなりました。師は私の苦難の中で、私の正念を強めてくださいました。私は修煉が足りないのではなく、まだ捨てきれていない執着がたくさんあるのだと思いました。
私は本を置いて、理性的に考え始めました。足の痛みは、自分が抱えている執着と結びついていることが分かりました。私はすぐに、夫への恨みがかなり強くなっていることに気づきました。すると足の痛みは和らぎましたが、まだ少し痛みが残っていました。そこでさらに考えました。「私はどこで間違ったのだろう? 私は何に執着しているのだろう?」
ある日、料理で野菜を切っていて、からし菜の塊を切ると中が空洞で黒くなっていました。私は「これは、私の心が法に同化していないからではないだろうか? 表面的には真面目にやっているように見えても、心の奥底ではまだ多くの人間的な概念を打ち破らなければならない。師の法を守って純粋に修煉していなかった。真面目に修煉していなかった。三つのことをやっているだけでは、本当に修煉しているとは言えない。心を修め、法を厳守しなければならない。修煉は、子供の遊びではないのだから。すべての思考と考えは法に基づいていなければならず、すべての出来事には理由があり、すべての出会いは私が修煉し、向上するための機会だ」と思いました。
それからの20日間、私は法を学び、煉功を続けましたが、修煉の状態はまだ良くありませんでした。ある日、娘が「お母さん、あなたの修煉状態が改善されていないところを見ると、あなたは問題の根本原因を見つけていないのかもしれない。これは重大な妨げだ」と言いました。私は娘に、問題の根本原因が見つからないと伝えました。これまで私は、夫に「内観しなさい」と言われると、「頭の後ろでは何が起こっているのか見えない」と言い訳していました。実際には、私は自分の過ちを認めず、うまく修めてきたと思っていたのです。
ある日、煉功をしているときに、夫の父が私にどれだけひどい仕打ちをしていたかを考えていました。突然、これは恨みへの強い執着であることに気がつきました。この恨みがなぜここまで大きくなったのか、私は気づいていませんでした。
これまで表面的には、ずっと義父を経済的、物質的に養っていましたが、実は心の奥底で義父を助けることをとても嫌がっていました。私は真の意味での修煉者、つまり高い道徳観を持った人間とは程遠い状態でした。表面的には親孝行をしているように見えても、本心はそうではありませんでした。夫が義父のところに行こうと言うと、私は怒ってしまいます。私は「なんであんな人のところに行くの? 時間がもったいない。その時間を使って学法するべきだ」とよく言っていました。しかし私の本心は、夫が義父にこれ以上お金を渡さないようにすることでした。夫がどうしても行きたいと言えば、私も一緒に行って、義父にお金を渡さないようにしていました。私はこの執着を手放すことができていませんでした。
私はようやく、この執着の根源を見つけました。私は、義父が私に良くしてくれなかったので、義父に悪く接しても良いと思っていたのです。このような小さな執着に気づかず、恨みが徐々に蓄積され、大きな苦難となっていたのです。その大きな苦難の中で、私は原因を見つけることができませんでした。精神的に疲れ、結果的に師と法を信じることができませんでした。
恨みの根源を見つけると、私の体の不快感は完全に消えました。
この体の不調を経験した後、私はより注意深くなり、修煉は非常に厳粛であると悟りました。執着を捨てないと上達しません。
20年以上の修煉の道のりを振り返ると、私にとっての「精進」とは、生活にゆとりを持ち、健康を追求することでした。法の勉強をサボれば、健康が損なわれるように思えたのです。その結果、私は自分勝手に、ひたすら法を学んでいたのです。私は、恨み、名声や利益、嫉妬、顕示心など、自分の根深い執着を発見しました。私はこれらの執着を取り除き、「良いことにあっても、悪いことに遭っても、大法さえ修めていれば、全ては良いことです」(二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法)という法理を悟る必要があったのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』