文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年9月13日】私の母は同修ですが、発正念についてあまり重視していません。時には発正念をする時間になっても未だにご飯を作っています。私は何度も母に忠告しましたが、母は家族が出勤時で忙しいことを理由にうるさがっています。なので、しばらくの間、私は母の発正念に対して少し執着してしまいました。発正念の時間になってから母に伝えた後、私は発正念をしながら、母がいつ来るかにばかり注意を払って、自分の発正念が疎かになっていました。
私が内に向かって探すと、母が発正念をしないことに対してものすごく執着する人心があることを発見し、頭の中でいつも、母はどうして発正念を重視せず、忠告しても話を聞いてくれないのかと考えていました。しかし実際には、これはすでに外に向かって探していたのです。これを認識した後、私はこの人心を取り除くように気をつけました。発正念になっても母が来ない時、私は他人への執着に、執着する人心を抑えることを始めました。結果、この心がとても頑固であることを発見し、無意識のうちに母はどうしてまだ来ないのかを考えてしまいした。私はまた内に向かって探し、二つの心を見つけました。一つは母に対する情であり、あまりにも母の修煉状態に注意を払っていました。その後、はっきり分かりました、自分は忠告するだけでいいのであって、母の修煉は師父が管理していらっしゃいます。自分が気にしすぎる必要があるのでしょうか。この心があるうちは、往々として外に向かって他人の不足を探しています。そうでなければ、自分の修煉も間に合わないのに、外に向かって他人のことに気を使う時間があるのでしょうか?
以上を悟った私は「これらの心はすべて要らない」と決心しました。ある日、発正念をする時、母に忠告した後、精力を集中して発正念をしていました。その他のことは何も考えていなかったのに、とても不思議なことに、母は自分で厨房から出て来て、そこに座って発正念をし始めたのです。しかしこの時、私の心は動じませんでした。私の不足を認識させてくださった師父に感謝いたします。
今、私は「修煉は自分を修めることで、他人の執着に執着する心を取り除かなければならないし、他人の問題を見つけたら善意に指摘してあげることです。しかし、その時心が動じてはなりません。もしできなければ、本当にこの心を修めなければならない」と悟りました。
個人の体得ですので、ご参考までに。