【慶祝513】私の父親
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 文/燕子

 【明慧日本2021年9月14日】私は80年代生まれ(訳注:一人っ子政策後に生まれた人)で、1996年に父親と一緒に法輪大法を修煉し始めました。大法は暗く不完全だった家を暖かくて幸せな場所に変えてくださり、私は師父のご恩に対して、言葉では言い表すことができませんでした!

 私の家庭

 私の父親は家庭が貧しかったため、30代まで結婚しませんでした。そして私の母親は父親よりも12歳年下で、精神的に問題を抱えており、俗に言う「知的障がい者」でした。私は物心ついた時から、いつも人にからかわれ、ひどく汚くされていた子供で、同級生は誰も私と遊んでくれず、私は盲目の祖母に遊んでもらっていました。

 私にはまた知能指数があまり高くない弟がいました。

 父は衝動的で気性が荒く、有能な人でしたが、アルコール依存症でもあり、1日3回酒を飲んでいました。地元では酒豪として知られており、結婚式やその他の行事があると、必ず酒の相手をするよう求められ、父親はタバコもよく吸っていました。

 かわいそうな母親と激怒する父親

 当時は、母親と弟は知能指数の問題のせいで、いつも父親に怒られ、強く殴られました。そのため弟は、学校が終わっても家に帰りたがらず、森の中に隠れ、父親は私に弟を探しに行かせました。また父親は三日にあげず母親を殴り、 殴られると母親は大きな声で泣き叫び、私は近所の人に聞かれるのを恐れて母に忠告すると、ついに母親は家を出ていきました。はっきり覚えているのですが、母親が再び殴られて家を出ていく時に、私はドアの前で母を強く引っ張って引き止めたのですが、母親は私の言うことを聞かず、私よりも力が強いので、私を突き飛ばして出て行ってしまいました。私は真っ暗な外があまりにも怖く、出る勇気はないので、追いかけることもせず急いで家の中に入り、父親を説得して母親を探してもらおうとしました。しかし、父親は激怒して「探すな、好きなところに行けばいい」と言うと、またお酒を飲みはじめました。私は再び泣いて母親を探しに行ってほしいと頼みましたが、父親は動きませんでした。私はびくびくしながら一晩過ごし、次の日にまた泣きながら、母親を探してほしいと父親に頼みました。母親は親切な人によって送り返されました。それを知った祖母と子供たちは父親とけんかしましたが、いつもと同じで、次の時も母を強く殴り、母親はまた家を出ました。それ以後私は、父親と母親が再び口論になった時、静かに鍵をかけて、母親が外に出られないようにしました。

 私は父親を怒らせないために、小さい頃から母親の料理を手伝い、弟の面倒を見ていました。当時の私は幼い心の中に、どうして自分はこんなに不幸なのかと感じ、このような家庭に生まれた無力感と恐怖感に苛まれ、劣等感を抱くようになりました。なぜなら私は、同年代の人たちの幸せや普通の人のように面倒をみてもらえなかったからでした。

 大法が父親に大きな変化をもたらした

 私が12歳の時、叔母の紹介で父親と一緒に法輪大法を学び、その時から父親は大きく変わり、まず最初にタバコとお酒をやめました。私の叔父は信じず「義兄がお酒をやめられるなら、私は食事をやめる」と言いました。数カ月後、父親が本当に酒を飲まなくなったのを見た叔父は、再びこのことに触れて「義兄には感心するし、この大法を敬服する」と言いました。

 父親の気性が改善され、母親を殴ることが少なくなりましたが、ただ母親の愚かな行動を見た時は怒りました。例えば、私の母親が大きな柄杓で水を飲むたびにほぼ半分くらいこぼし、半分こぼれた水で服の胸元がほとんど濡れ、残りの水は家の床に飛び散っていました。当時、農村の地面は土ばかりで、水を撒くと泥になり、踏むとどの家にも泥の足跡が付きました。父親はこのことをとても嫌がり怒っていましたが、どんなに言っても母親は変わることなく、ほとんど毎日のように同じやり方をしていました。私は父親に「これは師父が、お父さんの心性を試してくださっているんだよ」と伝えました。このようにして父親の心性は急速に向上し、叱る声も少なくなり、母親が家出をすることもなくなりました。大法が私に普通の家庭を与えてくださったことを、とても感謝しています。

 1999年に中共が大法を迫害した後、父は留置場に不当に拘禁されました。祖母たちはコネを見つけて、コネに頼り、6カ月後に父親を留置場から出しました。警察署の警官がいつも家に来て嫌がらせをし、不当に家宅捜索しました。私の母親は恐れ、いつも父親に修煉をやめるようにと言いましたが、父親はもちろん聞く耳を持ちませんでした。ある日、私と父が大法の正義を勝ち取るために北京に行こうと決めて、出発しようとした時、母親はベッドに横たわったまま「いつ戻ってくるのですか?」と父親に尋ねました。父親は熱を出して寝込んでいる母と弟に促されて、私に「お前は家にいて二人の面倒を見てくれ」と言いました。私は「いいえ、私は北京に行かなければなりません」と言いました。父親は「それならお前が行ってこい、俺が家で二人を見るから」と言いました。母親のために行くことができなかったのは、父親の一生の遺憾だったのかもしれませんが、父親は私に「師父は私たちにすべての面で良い人になるように説かれ、私は2人の病人を残していくことはできない」と言いました。

 それは生命に対する慈悲

 その後、母親は脳血栓になり、父親は母親により良い治療を受けさせるために、母親を大病院に連れて行き、少しもお金を惜みませんでした。退院後、病院にあったリハビリテーション機器を参考にして父親は、さらに手足を動かすための5つの道具を作り、座るためのもの、寝るためのもの、立つためのものがありました。

 母親は歩けなくなり、自分でベッドから起き上がることもできず、言葉も話せず、排泄の仕方もわかりませんでした。父は毎日母親と一緒に過ごし、身の回りの世話を嫌がらずに看て、体を鍛錬し、自分が発明した道具だけでなく、さらに母親を抱えて家の中を何周もしていたので、おそらく時間がかかったのでしょう。1周したら休み、また続けて歩かなければならないので、父親は母親に父親の首に腕を回させ、足を地面につけて立たせ、父親の歩幅に合わせて移動させました。

 父親は母親の世話をすることを常に喜んでおり、父の言葉を借りれば「何をするにしても、みなすべきことだ」ということでした。特に母親がズボンの中でウンチをした時、父親は汚れることを気にせず、まずホースで洗ってから洗濯機に入れていました。旧正月の時期には親戚たちが栄養価の高い食べ物を送ってくるので、それを父親はすべてとっておき母親に食べさせました。

 天気が暖かくなると、父親は母親が乗った車椅子を押して広場を歩き、村の人たちは父親をみて感心していました。「彼は法輪功を修煉しており、普通の人であれば1年もかからずに彼女を病院に返さなければならないだろう」と口々に言っていました。病気になっていない時の母親は異常な人だったとみんなは思っていたのですが、病気になったらさらに治療をし、なおさら大切に世話をし、それに何の意味があるのかみんなはわからなかったのです。

 私は「父親が母親に世話をしているのは、一種の慈愛の行動です」と言いました。父親は「それは1つの生命に対する慈悲です」と言いました。

 6年後に母親は再び脳血栓を患い、広範囲の脳梗塞で2日間集中治療室に入りました。すでに呼吸はなく、心音だけがあり、医者は「家に帰してあげてください」と言いました。父親の言葉はその場にいた親族全員の心を動かしました。父親は「植物人間になっても私は世話をします」と言いました。医者は「見込みはありませんが、それならさらに数日間観察しなければならず、自発的な呼吸があるかどうかを見なければ結果を出すことはできず、しかし助かる可能性は半分もありません」と言いました。祖母は「家に戻しましょう、植物人間になってもしかたありません」と言いました。母親の葬儀の日には多くの人が訪れ、祖母の家の叔父と叔母、さらに村の人たちが父親を大いに称賛し、中には父親に親指を立てる人もおり「簡単なことではありません、得難い良い人です」と父親を褒めました。

 弟の不幸な結婚

 弟のことを少し紹介します。弟の嫁の家族は、世界でも見つけるのが難しいほど理不尽極まりない家族で、ギネスブックの記録は、この嫁の家族に譲るしかないかもしれません。弟の義母は、悪名高い理不尽さで「金の亡者」であり、義母の義父(訳注:嫁の母親の夫)と義母の実父との間で訴訟を起こし、義母の実父の兄弟もみな敵になり、義母の実父の兄弟たちも義母の義父に話しかけもしませんでした。このようにして弟の嫁の家族は、私を通して知能の低い弟に出会い、さらに結婚しました(当時私の父親は、弟の嫁の家族がこのような人達であることを知らなかった)。弟の義母は私の父親がお金を持っていると聞き、自分の娘の仲人をしてほしいと人に頼み、私の弟は知能指数の問題でなかなかお嫁さんをもらえず、父親は弟の義母の娘(訳注:弟の嫁)との縁談を持ちかけられ、承諾しました。しばらく付き合った後に結婚の約束をし、 当時の結納の金品は1万元以上でしたが、弟の義母たちは3万元でなければならないと要求し、さらに家電製品もしっかり買わなければならず、当時の村では他にない存在でした。それでも父親は同意しました。

 結婚後に嫁の家族は弟を見下し、父親は多くの屈辱を受けましたが、大法の要求に基づいて耐えました。さらにきるだけ嫁の家族たちのことを考え、村人たちに笑われながらも、例えば自分の家族を率いて、畑の雑草を抜いたりなどの協力をしました。

 一年後に弟に息子が生まれ、弟の義父母は自分の娘の顔が輝いていると感じ、またさらに無茶を言うようになり、私の父親にアパートを買ってくれと頼みました。しかし、私の父親は承知しなかったので、嫁の家族たちはあっさりと弟の家に住まなくなりました。弟は賃金を稼ぐと毎月嫁の家族に持って行きましたが、弟に食事もさせず帰らせました。義父はさらに義兄が見ていられないほど弟を殴り、義兄は自分の父親(訳注:弟の義父)に「この婿は息子ではないので、このように叩くことはいけません」と言いました。弟は怒って、嫁の実家に行かなくなったので、嫁の家族はついに弟と離婚することにしました。嫁の家族は扶養手当を欲しがっていたので子供を渡さず、弟は離婚に応じませんでした。嫁の家族は弟を裁判所に連れて行って離婚請求をしたのです。私の父親は「離婚はしてもいいが、子供は私たちが引き取り、慰謝料は1円も払いません」と言うと、嫁の家族は同意しませんでした。最終的な判決によると、子供は嫁の家族に与え、離婚の判決から15日以内であれば控訴することができました。

 弟は非常に悲しみ、いつも多量の酒を飲んでいました。父親と弟は別の家に住んでおり、 ある日弟が食事に来ていないのを見て、弟の家に探しに行くと、弟がトイレで亡くなっているのを見つけました。

 徳をもって恨みに対処する

 父親は弟のために保険に加入していたので、それを保険会社に報告したところ、弟の義父母も弟が保険に加入していることを知ってやって来て保険のことで父親と争い、保険補償金の半分を要求してきました。保険の受取人が指定されていなかったことから法律に基づくと、相続人は保険金を等分して分けるよう通知されました。これは私の父親が予想もしていなかったことで、嫁の家族の離婚判決書からまだ15日経っていないため、離婚が成立しておらず、法律に基づき弟の嫁の家族が半分もらえることになっていました。しかし何万元ものお金は、農家が何年もかけて苦労してやっと稼げるお金でした。父親は「もし常人のやり方なら、絶対に嫁の家族に渡さないはずです。嫁の家族は離婚を主張し、さらに息子を訴え、息子を絶望的な状況に追い込み、亡くなった息子の保険金を要求しに来るという厚かましさで、嫁の家族には絶対払わない。お金はないが、命があればいいではないか。常人ならこのようにし、嫁の家族もこれで万事休すだ」と考えに考えました。

 しかし父親は、自分が修煉者であることを自覚しており、師父から真・善・忍に基づいて善人になり、善人よりも良い人になり、あらゆる面で人を思いやる人になり、自分の財産を求めず、名、利、情を放下するよう教えられていました。私の父親は嫁の家族に渡すお金をポケットに入れ、家の中をぐるぐる回り、しばらくの間そのお金を触りながら「弟の嫁の家族は本当にお金をもらう資格がないし、もらうべきではないと考える。自分はもう60歳で年をとり、数ムー(訳注:約2000平方メートル)の土地を耕している農家で、生活の糧はどんどん減っていき、年金もなく、それに母に治療を受けさせなければならない」と考えました。しかし、大法のことを考えると、真・善・忍の法理に逆らうことはできないので、30分ほど行ったり来たりしてから、私に電話をかけてきて、私の考えを聞きました。そこで私は「とても大事なことだから、自分のことは自分で考えてね。お父さんの選択のすべてを尊重するよ」と言いました。

 最終的に父親は大法の要求に従って行動することを決め、嫁の家族にお金を渡すと本当に大喜びでした。もしかしたら、嫁の家族も父が渡さないことを覚悟していたのかもしれず、なぜなら弟の義父が何度も「来てくれると思っていました、来てくれると思っていました」と繰り返し言っていたからです。父親は嫁の家族に「彼(訳注:私)がなぜ来たのかは、彼は真・善・忍を信仰し、この3つの言葉のために彼は来ました」と伝えました。嫁の家族がどれだけ喜んだかは言うまでもありませんでした。

 子供はずっと嫁の家族によって育てられました。半月前に子供は学校の入り口にある横断歩道を渡っている時に車にはねられ、下肢を骨折して入院しました。嫁の家族はこのことを父親と私に伝え、父親と私は病院に行って弟の嫁の家族に会い、より良い病院に移る手助けをしました。なぜなら子供の義父は地方で仕事をしており、祖父母は自分の仕事を持っていて、子供の面倒を見る時間がなく、母親だけが一人で病院で子供を見ており、さらに3歳の弟もいたからでした。父親は子供の母親たちがかわいそうに思い、 毎日午前中は子供の母親が面倒を見て、午後は私の父親が面倒を見て、毎日父親は食べ物を持ってきて、さらに2人前買ってきて、1人前は弟にあげました。子どもの母親はとても感動し、子どもの祖母の家族もとても感動しました!

 ある日、子供の母親が携帯電話の天気予報で「明日は雨」と表示されているのを見て、父親に「明日は来ないでください、こんなに遠いし、雨の中は歩くのも大変ですから」と言いました。しかし父親は子供の母親が風邪をひいていることを知り、次の日もやはりやって来て、子供の母親は非常に予想外だったようで「来ないようにと言いませんでしたか? なぜまた来たのですか?」と言いました。私の父親は「あなたは病気ではないのですか? あなたが病院ではゆっくり休めないことを私は心配し、子供は動けないしおしっこもできないのですから。家で半日ゆっくり休んでください。」と言いました。子どもの母親はとても感動しました。

 最初の頃、子供の母親がどれだけ父親を困らせ恥をかかせ、父親の噂を作り、父親を怒鳴りつけ、父親を苦しめたかを思い出すべきだと私は思っていました。本当にあまりにもひどくて過去のことを回顧するに堪えませんでした。しかし現在の父親はそんなことは全く気にせず、常人だったら敵だと思うような人を家族のように扱いました。これこそが最高の寛容さであり、大法から修め出した慈悲でした! 法輪大法だけがこのような大きな威力を持っており、このような偉大な大法徒を作り出すのです!

 法輪大法が私の父親を変え、父親の母親への憎しみを思いやりへとさらには慈悲へと変えました! 父親はこんなに多くの魔難を経験し、2人の家族の生死の離別を経験した後、それでも健康的で楽観的な心態を維持し、さらにこんなに良い人になったのでした。父親は今なお大法の中で努力して自分を着実に修め、自分を無私の人間にしようと努力しています。

 大法に心の底から感謝申し上げます! 師父に感謝申し上げます! 私も大法の中で心を勇猛にして修業に励みます!

 師父にお礼を申し上げます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/17/386081.html)
 
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