東京オリンピック取材での体験
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年9月14日】マスコミ記者として、東京オリンピックの取材中の心得を交流したいと思います。その期間中、切実に「修は己にありて、功は師にあり」[1]と感じました。

 この度のオリンピックで、私は現場の取材に取り掛かりました。振り返ってみると、すべてが師父の慈悲なるご加護であると感じ、また、取り除いていない自分の人心を見つけました。

 初めにオリンピック聖火リレーに関する取材に行ったとき、コロナの原因により主催者は案を変えましたが、公式発表をしておらず、私と同修のAさんは当初の予定していた場所に行ってしまいました。資料の調査は私が担当していたので、こんなミスが起きてしまったことに気がとがめ、ずっとAさんに謝りました。Aさんは、今何が起こってもおかしくない状態であると、逆に私を慰めてくれました。その後、一緒に終点に行ってみようと決めました。

 終点でようやく聖火リレーの舞台を見つけましたが、周りはすでに警備員と警察により囲まれて、事前予約なしで名刺だけでは入ることができませんでした。以前、コロナがない時、このようなイベントに記者の名刺があれば、予約していなくても入ることは可能でした。仕方なく、私たちは外側で写真を撮ったり、一般人の方にインタビューをしたりしましたが、それも警官に質問され、場所を移動するたびにまた質問されました。私は同修に「以前の取材はいつも予約済で、丁寧に応対されましたが、今回はこれほど粗末に追い払われて、落差がかなり大きいね」と笑いました。冗談ですが、逆境を受け入れられない心に気づきました。

 その後、この取材の記事は発表されませんでした。私は落胆していて、聞くこともしませんでした。その間、同修のBさんに対する嫉妬心も見つかりました。Bさんより、自分のほうがうまいと思っていましたが、Bさんの記事は何度も発表され、私は無視されました。今回はチームの最初のインタビュー記事だったので、聞いてみようと思いましたが、心が穏やかではありませんでした。ふと以前Bさんに「顕示心があり、目立ちたがり屋だ」と言われたことを思い出し、嫉妬とネガティブな気持ちが表れ、仕事が忙しいと言い訳をして誰とも接しないようにしました。

 しかし、私も自分が間違っていて、嫉妬心によるものだと分かっていたので、そのようなよくない考えを必死にブロックしようとしました。私たちの修煉はすべて師父が見守ってくださり、記事が発表されなかったのは、きっと私のどこかが基準に満たしていなかったと気づきました。内に向けて探すと、嫉妬心と顕示心が見つかりました。

 間違いが分かると変化が現れます。一緒に取材したAさんから突然「インタビューの記事が掲載されたのを見ましたか? 前回取材された方がそれを見たいと言いました」と言われ、私は「まだ見ていません」と言いました。自分の取材した新聞に責任を持つべきだと思って尋ねると、Aさんは「実は連絡上のミスで、最後に掲載を担当する同修がその記事の保存先を知らなかったのです」と言いました。今回の事を通じて、私の執着心はなくなり、誤解も解けました。記事が発表されなかったことに少し残念でした。当初、採用されなかったら、次はもうやめようと思ったこともありましたが、諦めなくて良かったです。

 2週目に入ると、決まったイベントがないため、建物など背景写真の撮影のみでした。真夏の厳しい暑さだったので、私とAさんは少し涼しくなる午後3時以降に出かけることにしました。合流してから半分ぐらい写真を撮ると、突然大雨が降り出しました。まだオープンしてない選手村には雨宿りができる場所は屋根の一カ所だけでした。軒下で雨宿りしていましたが、雨雲が私たちを追っているかのように、ずっと頭の上から離れませんでした。結局、撮影用の設備は雨から守られましたが、私とAさんはびしょ濡れになりました。夏の雨はすぐに止むのですが、その日の雨は降り続け、一時止んで再度撮影しようとすると、再び降り始めました。Aさんは「この雨は私たちを狙っているみたい」と言い、仕方なくその日の行動を中止しました。帰り道でAさんは「自分に安逸心があったから、このようなことが起こったと思います。暑さなど気にせず、学法煉功をしてから出かければ、状況が変わったかもしれません」と話しました。

 翌日、選手村がオープンされ、前日に撮った背景写真はちょうど役に立ちました。師父は私たちに何を用意してくださったのかが分かりませんが、全力を尽くすべきだと思いました。前日の撮影で、もう少し多めに出演の画面を撮り、インタビューをしたら、より良い新聞になったのにと、師父に対して面目無いと感じました。

 オリンピック期間中、私のパソコンにも問題が生じました。何度も電源を入れ直してもうまくシステムに入れず、仕事ができなくなりました。急がなければならない記事がありましたがパソコンが使えず、とても焦りを感じ、スマホで作成するしかありませんでした。その後内に向けて探すと、長年の修煉の中で、パソコンに不具合が発生する時は、往々にして自分の修煉状態に問題があり、執着心があったからです。数日前、同修から記事を依頼されましたが、時間がないからと言って断りました。時間がなかったことは事実ですが、なんでも私に押し付けているという不平不満の心と、他人に指示されたくない心もありました。私は同修に協力しなかったので、パソコンも私に協力してくれません。私は同修の考えがころころ変わり、私の計画通りではなく、それを変えるよう指示されることが嫌でした。私は師父に自分の過ちを認め、これからは絶対に無条件に同修に協力すると約束しました。

 翌朝目が覚めると、選手村のプレスセンターに集合するようメッセージが届きました。本来は家で情報収集して記事を書くことになっていたのに、突然の変更に行きたくない気持ちで、ネガティブになりました。パソコンも正常になっているかが分からないと思ったら、昨日は絶対に協力すると師父に約束したことを思い出しました。私はすぐに同修に「設備の充電が終わったら行きます」と返事をした後パソコンを開くと、すでに元通りに回復していました。

 インタビュー記事で使われていない内容もあり、それに対して残念に思っていました。インタビューを受けた衆生も彼らと縁があり、それぞれそのインタビューを通して大法の真相を知るかもしれません。できるだけインタビューした内容をすべて使おうと考えました。同時にコロナや人々の心態の変化も合わせて、オリンピックのまとめ記事を書こうと決めました。

 当時、オリンピックは毎週のコロナの変化に伴っていました。私は具体的な数字は知らず、だいたいのイメージしかありませんでした。インタビューの内容とその他のつながる部分を書き終えてから、コロナのデータを調べようしたところ、日本のマスメディアからコロナ情報が発表され、具体的なデータがありました。まさに師父が私たちのためにすべて準備して下さったと感じました。

 最後の閉会式の取材で、本来は閉会式の花火を撮影して新聞にしようとしましたが、その時間の新聞発表がキャンセルされ、4時間前の発表順位に回されました。すぐに同修と早めに取材に出掛けるようにと連絡し、ありがたく協力してもらいました。当時、台風10号が日本を去ったばかりで、小雨が降っていました。「雨でも大丈夫ですか?」と同修に聞かれ、私は「大丈夫です。今日はどんなに雨が降っても撮影に出かけます」と言いました。結局、雨も降ったり止んだりして、私たちが撮影と取材をする時は雨が止み、最後には完全に晴れました。行く途中、同修は「着物姿の日本人にインタビューできたらいいな」と言っていましたが、到着すると、本当に着物を着たボランティアの人が外国の記者たちに飲料水を渡したりしていて、私たちのインタビューにも応じてくれました。すべてが終わった後、すぐに家に帰って記事を書き、新聞を完成させなければなりません。現場から家まで3回乗り換えが必要で、順調なら50分くらいで、もし運が悪く間に合わなかったら一時間半もかかります。新聞発表の時間が迫っているため、心の中で師父にお願いをしました。すると乗り換えも順調で、私が乗るとすぐに出発するなど本当に私を待ってくれていたみたいで、何と45分くらいで到着しました。新聞の時間にも無事合わせることができて、本当に師父のご加護に感謝します。

 前の撮影で、私たちはいつもオリンピックのマスコットを撮りたかったのですが、探しても見つかりませんでした。午前中に撮った写真は十分記事に使えるので、午後の背景撮影が必要かと考えましたが、やはり行くことにしました。一日の撮影が終了し帰る途中で、ずっと撮りたかったマスコットを見つけました。その時諦めていたら絶対撮れなかったでしょう。諦めなくてよかったです。師父は私たちの道をすでに按排してくださいました。苦労した分、常人の心を捨てることができ、苦労してより多く得られるのです。

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 注:
 [1]李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/3/430379.html)