再び私心を取り除く
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年9月26日】コロナウイルス発生後の2020年初頭には、すべての海外旅行ツアーがキャンセルされ、その結果、私は仕事を失いました。観光業は不安定な産業であり、過去には天災や人災などさまざまな理由で、観光客が訪れないこともありましたが、すぐに通常通りの状態に戻りました。

 その時は、回復には1年半くらいかかるかもしれないので、この時間を使って大法に関するプロジェクトを進めようと考えていました。 当時の私は、取材チームの記者と翻訳チームの翻訳者の2つのプロジェクトを担当していました。 私は長い間、質的にも量的にも良い仕事ができていないと感じており、改善するには法の勉強をし、強化したいと考えていました。そして、忙しくて疲れている状態を突破できないと感じることが多かったのですが、その理由が見つからず、そろそろ修煉の状態を変えなければならないと気づきました。

 当時の私は、朝夕2回法の学びを自分のルールとし、『轉法輪』や新経文を学び、さらにインターネットで同修と学ぶことにこだわっていました。 午前中は同修と一緒に煉功したり、交流したりして、一定期間が過ぎると、自分でも向上したと実感できるようになりました。コロナウイルスが拡大するにつれ、インターネットでの翻訳とは別に、法会に参加したり、パレードに行ったり、同修と交流したりすることに慣れていたことが影響しました。

  以前はニュースを取材するとき、対象者が簡単に見つかり協力してもらえたのですが、今はコロナウイルスの流行を報道するために、プロの医師に取材したいと思っても断られてしまいます。 さまざまな展覧会やフェスティバルが中止になったことで、取材できるテーマも減り、外でできることといえば、ポスティングくらいしかありません。しかし、衆生を救いたいという気持ちは、平凡な生活の中ですり減っていきました。

  その後、香港の状況、特にアメリカの選挙の時には、毎日新しい情報が入ってきたので、報道や解説を追っていましたが、次第に、迫害を終わらせるために一般の人に頼るという強迫観念も出てきました。 法理においては、師父が法を正しているのであって、旧勢力が仕組んだ迫害を認めているわけではなく、法を正す時間の終了に執着することは大きな漏れであることはわかっていました。しかし、どうしても見たくなってしまい、同修が作った番組だから、国際情勢がわかるべきだと言い訳をして、自分好みのコンテンツを探していました。人心がどんどん出てしまいました。

 アメリカの選挙の後、私は少しがっかりしました。その時、私は常人社会の情勢変化に執着しすぎていること、時間にこだわりすぎていること、人を救うために地に足がついていないことに気づきました。 私は静かにその理由を探しました。基本的に私が人間の感覚にこだわりすぎて、常人社会の情勢に振り回されていたからです。人間の感覚、感受とは何でしょうか? 師父は次のように説かれました。

 「それでは、人間から言えば、生きることの意義はどういうものなのでしょうか? 他でもなく利益に対する執着と、情の中にどっぷり漬かって人生の過程を享受する時の感受です。皆さん考えてみてください、なんと気の毒なことでしょう。どういう感受ですか? 何かを得たら喜ぶし、得られなかったら苦しみ、肉を食べればおいしいと思い、飴を嘗めれば甘いと思うのです。しかし、この世に苦しみと辛酸もあります。更に、若者の情に対する執着からの感受、異なる階層の人が人生の道で何かを追求するときの感受、何かを得たり失ったりする時の感受がありますが、このような得失は本当に努力によって得られるものではありません。人間はこのように世の中で生きていますが、なんと気の毒なことでしょう。しかし、人間はいわゆる現実の中でこれを見抜くことができず、見抜きたいとも思っていません。」[1]

 「人間はこの世で生命の過程を楽しんでいるだけで、以前人間は気の毒だと話したことがあり、人間はこの世で生活の過程で感じたことを享受しているだけです。私のこの言い方は比較的正確です。どういう意味でしょうか? 人間は自分で自らを司っており、自分のやりたいことを決めていると思っていますが、実はこれは後天的に養われた好みの中の習慣と執着であり、感じ方を追求しており、それだけです。本当に何かを行うときに背後で作用を働く要素は人間の習慣、執着、観念、欲望などを利用して作用を働いています。本当の人体はこういう状況で、生活の過程で感じたことを享受しているだけです。甘いものを与えられたら甘いと分かり、苦いものを与えられたら苦いと分かり、辛いものを与えられたら辛いと分かり、つらいことを与えられたらつらいと分かり、幸せなことを与えられたら嬉しいと分かるのです」[2]

 修煉のさまざまな段階で、私は自分の根本的な執着を見つけ、あらゆる種類の執着心を取り除いたと思っていましたが、しばらくすると、また悪い考えや欲望が出てきて、自分の感受もまたすべて悪くなっていることに気がつきました。そのとき、自分の利己主義がいかに重く、自分がどれほど自分のことを気にかけているかに気がつきました。かつては名声、利益、情だったものが、今では常に変化する感受に変わっていることに気がつきました。何かがおかしいと感じたとき、私は人間的な方法で調整して、最終的にはやはり人間の心で判断することになります。 人間のものは、大法弟子が求めているものではありません。 強い主意識を持っている限り、はっきりと区別することができます。

 毎日法を学んでいますが、本当に法が身についているのか? なぜ実践できないのか? それとも、私は人間の感情で大方を理解しているのでしょうか? そう考えると、大法に溶けているとはどういうことなのか。つまり常に法理が頭の中にあり、自分が感じることではなく、大法が要求することをしようと考えることなのだと理解し始めました。このことを理解してからは、目が覚めて、静かな気持ちで、法を学ぶことができるようになりました。

 今の私は、すべての思考が法に基づいているということはまだできていませんが、その方法はわかっています。

 少し前に、煉功点の協調人がグループ内で「みんなで体験記事を書いてほしい」と言っていたとき、私はしばらく修煉がうまくいっていないので、うまく書けないと感じて、書きたくないと思っていたのですが、ふと気づくと、私心で判断していました。このことから、真に修煉するということは、私心そのものをすべて取り除き、師父が按排してくださった修煉の機会を大切にすることだと悟りました。

 以上は、現段階での限られたレベルでの個人的な修煉経験ですので、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/17/430885.html)
 
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