【国際ネット法会】文章を書く仕事に携わる中での修煉体験
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文/ワシントンDCの大法弟子

 【明慧日本2021年9月28日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は2013年タイにいた時に新唐人に参加して、当時はとても嬉しかったです。記者や編集者になって文章を書くことを通じて衆生を救い済度すると同時に、有名にもなれると思っていました。毎日二つの記事を書いて、とても良い気分になりました。暫く仕事をして、私が自分のペンネームを同修に教えると、同修は新唐人のサイトで私の書いた文章を検索して、とても褒めてくれました。私は口では謙遜していますが、実際にはこっそり喜んでいました。

 1カ月過ぎたところ、編集長は、私の文章レベルの向上が遅くて編集に向かず、レベルが上がってくるまで校正の仕事をするようにと言ってきました。その時、自分の執着心が文章力の向上を妨げたと悟らず、恨みと怒りに動かされました。あの頃、現実に毎日校正をしていたのですが、何かの方法を使ってまた編集の仕事に戻ってこられたらいいなと思っていました。

 ある日、協調人が来て、私の仕事に対する真面目さを褒め、ある地域の顧客フィードバック処理を兼ねて担当するようにと指示しました。その時、師父の「決して記事を作成する人だからとか、編集者、翻訳者、マスコミによく出ている人だから、または仕事が特殊だから、威徳が大きいというわけではありません。このマスコミに参与しているすべての大法弟子は何を行なっても、同じなのです」[1]を思い出したのですが、強い執着心に動かされて、編集の仕事からますます遠くなっていると感じて、新唐人でやっていく忍耐がなくなりました。私は立派な理由を見つけて、協調人に辞める旨を伝えました。協調人は私が離れるのを惜しんで、「もう少し考えてみて」と言ってくれ、半月後、協調人が私に考えた結果を尋ね、「納得したなら仕事を始めようか」と言ってくれたのですが、私は断固として断って新唐人を去りました。

 暫くして、別のプロジェクトの責任者が私に編集の仕事をやってほしいと声をかけてきて、これはちょうど私の理想に合致したので、「ラッキーだ」と喜んで思いました。最初は時事ニュースをやって、後は中国時政ニュースをやって、私が書いた記事はよく重要記事のところに推薦され、クリック率が明らかに上がりました。トップニュースに推薦されるために私は努力を始めました。ソーシャルメディアの週間ランキングを見ていると、成功した後の満足感がありました。

 2014年、編集長の推薦で「神伝文化物語編集チーム」に参加しました。中国の伝統文化に照らし合わせると、自分の言動に共産党文化のものが多いと分かりました。私は自分の修煉を見つめ直しました。新唐人で働いた頃に編集長とのいがみ合いは心に刺さった針のようで、自分の修煉に漏れがあることを常に私に思い出させました。

 「しかし一部の学習者は心性の求めるところに従わずに、動作だけをやっていて、心性を修めようとしないので、煉功者とは言えません」[2]という師父の言葉を思い出し、自分は煉功者と言えるかと、自分に問いかけました。問題の深刻さを認識し、私は心を修めることに力を入れ始めました。まず大法の基準に照らして自分の言行を正し、大法の仕事をする時の出発点を正し、どんなに小さい不正の念頭も見逃さずに正すと、だんだんと、心性の関にぶつかる時に平静に乗り越えることができるようになり、私を長年悩ませた関と困難を、穏やかな気持で乗り越えました。ため息をついて人の欠点ばかりを見ることを止めて、同修の長所を見て、楽しい雰囲気で同修とコミュニケーションを取ることができるようになると、嫉妬心もそれほど強くなくなって、修煉初期の、純粋な心でいられる状態を取り戻したようでした。

 2019年6月、香港大紀元の仕事に参加しました。嬉しいのは、私に割り当てられた仕事は校正です。これは師父が与えられた機会だと思います。繁体字の校正に対応するために、繁体字版の『轉法輪』を購入して、日常の学法、ネットサーフィン、読書などの際にすべて繁体字を使用し、繁体字に慣れるように工夫しました。校正のレベルもいつの間にか上がってきました。特に2020年5月以降は、人手不足のため私は毎日少なくとも10時間働き、週に7日働くことが多かったのです。過去には時間を無駄に過ごしたことが多すぎたので、これは、今までの損を補う良い機会でした。

 1年が経ち、私は様々な校正をしてきました。録音から起こした文字の校正、新聞板面の校正、ネット文章の校正など。良い修煉状態にいる時、訂正が必要な字はいつも自動的に目の前で大きくなり、まるで検出されて訂正されるのを急いでいるようで、文字を正すと同時に、私は自分自身をも正していました。

 ある日、新株発行に関する文章を校正した時、タイトルに使われた数字を規定通りに大文字に変えましたが、大文字を使うとタイトルが目立たなくなるという理由で作者の反対を受けました。「規定通りにした」と説明しましたが、私に直す気がないのを見て、校正チームの責任者は作者の思い通りにタイトルを直しました。「私が校正した部分をまた元どおりに戻すなんて、私のメンツが丸潰れになるではないか。しかも私は規定通りにしただけだ」と一瞬思いましたが、すぐに「こう考えたのは本当の私じゃない、こんな考え方は要らない」とその考えを否定しました。

 「神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです。(拍手) いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません」[3] 

 人に言われたくない心を除去しながら、作者と校正チームの責任者にもう一度校正の規定を明確にしました。但し、その時の心境は、大法の仕事に対する責任感だけを考えて、自分自身の正しさを証明する気持ちは少しもありませんでした。

 名声を求めて文章を書きたくて校正の仕事をしたくないという執着心を取り除いたと同時に、いつの間にか安逸心が生じていたことに気づきませんでした。毎日10時間かけて校正をしていますが、実際の仕事はそれほど忙しくありません。仕事の合間に学法、煉功、発正念をすることもできるので、生活の段取りをうまく取って、家に帰ってから悠々自適に過ごすことができるようになりました。毎日「三つのこと」もしているし、仕事は難しくなくてそれほど忙しくもなく、その状態に満足していました。

 しかしその後のある日、突然の事件が私の安逸な生活を打ち破りました。その日、編集長はある文章のタイトルを指して、「30文字も超えるタイトルだが、何を言っているのか分からず、漢字文化が台無しにされた」と嘆きました。これは面白いと思って、私も一緒に嘲笑しました。その文章の最終チェックは台湾のある女性同修だったので、私たちの対話を聞いてとても傷ついて、これから文章の最終チェックを辞めると表明し、私の笑い方がきつくて傷ついたとも言いました。この文章の最終チェックは彼女だったとは全く知らなくて、彼女を狙って嘲笑したわけではないと説明して、謝りました。

 彼女によると、最終チェックの仕事はとても人手不足で、私に手伝ってほしいと言ってきました。しかしその仕事を引き受けると、今までの生活のリズムが破られることになります。迷って自分の損得を図っているのは、実は安逸心がとても強かったということでした。

 その仕事を引き受けた後、とてもタイトなシフトに配置され、毎日三つの時間帯、アップデート、校正、最終チェックという三つのチームで当番をします。協調人に何回も「労働時間が長すぎる」と訴えたのですが、人手が増えたら必ずあなたのシフトを減らす、今は協力して当面の困難を乗り越えようと言われました。だんだんと忍耐は限界になって、こんなシフトは修煉の邪魔になり、心身が疲れて向上できないと思って恨む心も生じました。

 ある日、煉功していた時も恨む心はこみ上げて、胸の中は不平不満でいっぱいになりました。突然、耳元に師父の「コツコツと働き、上司から与えられた仕事は何でも文句無しに受け入れ、利益をめぐって争うこともなくなりました」[2]と言う声が聞こえました。一瞬、私は凍り付きました。師父はずっと修煉者のそばにおられると分かっていながら、気持ちのこんなに小さい動揺も師父にはっきりと察知されているとは思いませんでした。師父は私に注意を喚起しておられるのです! 「師父、私は間違いました。どうすれば良いか分かりました」と私はすぐ師父に謝りました。

 上記の『轉法輪』の言葉は、仕事をする時の姿勢に対する大法の基準であると私は知っています。それに従おうと決心しました。しかし、実行するのは決して楽なことではありません。今、当直の人間がいない空白を埋める目的で、私の時間はバラバラに分断されています。例えば、私は昼の12時に当番に入って、たった1時間働いて13時に降りられます。もう一人の同修が13時から17時まで当番をして、私はまた17時から20時まで当番をしなければなりません。それでは、煉功時間も作れなくなっています。それに、他の人は時間帯を選ぶことができますが、私は誰もやらない時間を埋めないといけません。不公平、協調人に軽視されていると思って、恨む心が湧いてきました。

 ある日、また私は三つのバラバラの時間帯を担当させられ、そのうちの一つは早朝4時です。まだ完全に除去されていない恨む心が湧いてきて、向こう側の同修に「私たちの早朝4時はあなたたちの午後だということで、午後という良い時間帯にあなたたちは当番をせず、私にやらせるのは、能率の悪いやり方ではないか」と回答を送った後、師父の言葉を思い出して、私はすぐに「送信取消」を押して、「はい、私は当番できる、問題ない」と新しい回答を送りました。送った後、なんと一つ大きな重荷を下ろしたように軽やかになって、気持ちも楽になりました。

 最終チェックをするのは、人心を除去する過程でもあります。記者の中には、原稿を訂正されるのが嫌な人もいます。ある記者は「私の原稿を訂正するには、まず私に声をかけなければならない」と言って、ある記者の文章のタイトルが字数を超過したのですが、「直さないで! すべての文字は綿密に推敲した結果だ」と言い、ある記者は「これは香港の使い方で、あなたたち本土の人は分からないのだ」などと言いました。しかも、このように言うのはほとんど新人で、訂正しなければ使えない文章もありました。

 このような状況に遭ったら、どうすれば良いか分からなくなります。しかし、これはきっと修煉上の問題であると分かっています。表面上の是と非は一つの誘因にすぎませんが、根本的な原因は何でしょうか、それを見つけなければなりません。「人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」[4]

 師父の言葉に従って頑固な観念を変えなければならないと思いました。なぜ私が校正をしていた時に、毎回問題が起こったら校正の間違いだと言われ、最終チェックをする時に間違いがあったら、また皆は最終チェックの一環の責任だと言うのでしょうか、全部、私の耳に障る言い方です。そうです、見つかりました。褒め言葉を聞きたくて、意見や指摘を聞きたくないという執着心が私にはあるからでした。

 「これから、人から言われたくない人は、つまり精進していない人です。人から指摘されたくない人は、その人が表しているのは修煉者の状態ではありません。少なくとも、この点に関してこのように言えます。(拍手) この関をこれから乗り越えられない人がいれば、皆さんに教えますが、それは大変危険なのです! なぜなら、それは修煉者にとって最も根本的な問題で、最も取り除くべきものであり、必ず取り除かなければならないものだからです。取り除かなければ、圓満成就することができません」[5]

 その心を除去するため、仕事の中で進んでそれを明るみに出すことにしました。問題が起きれば、「それは私がやったのだ」、「申し訳ないが、私は良くできなかった。これは私の責任だ」と言って、気に障る言葉を聞きたくない心をさらけ出しました。

 だんだんと、気に障る言葉を聞きたくないという執着心が、いつの間にか感謝の気持ちに変わったと気づきました。シフトを組むことを担当する同修が私の勤務時間を尋ねるメッセージに毎回、合掌のマークを使っていますが、私も毎回同じく彼女に敬意を表しています。

 1日中緊張して、娘の電話に出る時間がないこともあります。電話の向こうで娘が大声で「お母さん、どうして私の電話に出ないの、何をしているの」と叫ぶのを聞いて、娘への情も多く放下したなと感慨しました。これまで娘は毎日、仕事の帰りに私と通話をしていました。娘も忙しいので、車を運転して帰宅する間の時間を利用して進んで私とコミュニケーションを取っています。私もその時間帯を大切にして楽しんでいて、毎日その時間帯になると娘からの着信に専念して待っていて、親子の愛情を味わい、多くの時間を無駄にしていました。その愛情を今になっていつの間にか放下しました。修煉の道を手配してくださった師父に感謝し、また、誰も当番できない時に私を思い出してくれたシフトを組む同修にも感謝します。

 この文章を書いた日の朝、夢を見ました。夢の中で師父は説法のホールから出てこられ、私は師父から一歩離れたところにいて、師父の優しい顔を見て、感激の涙を流し、心の中には限りない感謝しかありませんでした。

 私を育成して、法を正す時期の大法弟子にさせてくださった師父に感謝します。私を鍛えて、衆生を救い済度する機会を与えてくれた法輪大法に感謝します。宇宙の激変の偉大な時に生まれて、古い宇宙から解脱して新しい宇宙の一員になれることに感謝します。必ず師父について最後まで歩み続け、天国世界に戻りたいと思います。

 「見た目では、皆さんは大法のため、行なうべきことを行なっているようですが、実質上、皆さんは自身の全面的な圓満成就と回帰のために行なっているのです。もし、皆さんがこの時期に、皆さんの行なうべきことをしっかりと行なうことができなければ、この圓満成就という段階も、修煉の過程であり、根本から法を正す弟子としての真の最終的な圓満成就とはなりえません。大法弟子が邪悪の迫害の中でしっかり行なえなかったり、または自分を緩めてしまえば、これまでの努力が水の泡になるかもしれません」[6]

 修煉の道において、先がどんなに長くても、私は怠らずに精進して、大法の基準に同化できる修煉者になりたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [5] 李洪志師父の著作『ロサンゼルス市法会での説法』
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「法を正す時期の大法弟子」

 (2021年国際ネット法会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/21/427250.html)