自己を捨て、苦難を喜びに変える
■ 印刷版
 

文/李耘

 【明慧日本2021年10月6日】2019年の神韻プログラムの物語である「愚かな小坊主」は、何でも文句を言わずにやってしまう、親切で愚かな小坊主の話です。彼はよく他の僧侶から笑われていました。「天道は親(シン)無し、常に善人に与(くみ)す」(天の行なう道には、依怙贔屓(えこひいき)が無く、常に善人に味方する、と言う意味です)結局、僧侶たちはこの小坊主は神仏のお気に入りであることを発見しました。

 私が海外のメディアチームに参加したとき、私の仕事は文章を書くことでした。私は、中国共産党の洗脳された影響を排除するために努力し、自分を変えて行くことによって、仕事をうまくこなせるようになりました。

 ある日、人事部長から「オフィスのロジスティック業務を担当してほしい」と言われました。その時、私は「私は修煉者だから、自分のやりたいことだけを考えるのではなく、与えられたポジションは何でも受け入れるべきだ」と思い、引き受けました。

 人によっては、そんなことをするのは時間と才能の無駄だと言う人もいました。しかし、私はそれが自分の才能とは関係ないと思いました。むしろ、これは自分の修煉のためだと思ったのです。法を正す中では、このような新しい経験が必要なのだと感じました。

 当時、関連メディアチームのメンバーから参加を誘われました。今のチームには、私が担当していたロジスティックな仕事をする人が必要だったので、私は残るべきだと思いました。それは作戦上、必要なことでした。私はそれをうまくやるべきだと信じていました。

 新しい仕事を始めてすぐに、マネージャーから「清掃係の女性が3週間休暇を取るので、彼女がオフィスビルに来ない間、彼女の仕事を引き受けてほしい」と言われました。正直なところ、私には準備ができていませんでした。しかし、私は求められた通りに行動しました。朝早くオフィスに来て、3つのフロアに掃除機をかけ、ゴミを出し、トイレの掃除をしました。他の人の仕事の邪魔にならないように、通常の営業時間が始まる前に主な清掃作業をすべて終えました。

 私の人心が時折表れることがあります。そんな時、師父の言葉が頭に浮かび、心が落ち着くのです。

 師父はこう説かれました。

 「佛は皆さんを済度するため、かつて常人の中で物乞いをしていたのです。わたしは今日、門を大きく開いて大法を伝え、皆さんを済度しています。わたしは無数の苦難を嘗めても苦しく感じたことなどないのに、皆さんはまだ何が放下できないのでしょうか?」[1]

 奇跡的に、初めて掃除当番をしたとき、体中の細胞が飛び跳ねて光っているように見えました。その2日後、天目で見ると、私の体に巻かれていた貝殻が頭の上から割れていました。それが剥がれ落ちると、より細かい粒状の体が浮き上がってきました。

 この3週間の期間が終わると、今度は古い寮の建物を改造して掃除をすることになりました。その数日間は、当時のニューヨークは1年で最も暑い日で、毎日、朝から晩まで、古い建物を壊したり、大量に落ちている鳥の糞を掃除したり、新しい壁を塗ったりと大忙しでした。時には食事が遅れることもあり、空腹でフラフラになることもありました。しかし、私には何の不満もありませんでした。ただ、早くきれいに仕上げることだけを考えていました。

 鳥の糞を掃除していると、嫌な臭いがして息苦しくなりました。私の周りには覆いがあって、その臭いから守ってくれているんだ」と思いました。瞬間的に、嫌な臭いが消えていくのを感じました。

 寮の改築が終わった後、私は少し痩せて、個人的な損得勘定に対する執着が逆に減っていました。

 物流業務で多かったのは、オフィスや寮の家具の移動、購入、組み立てです。時にはトイレが詰まっていて、どうすれば早くブロックを外せるかを考えたり、蛇口が壊れているときは、シンクの下に潜り込んで床に横になって仕事をしたりしました。 一つのことが終わっていなくて、他にもいくつかのことが待っていることもありますし、退勤時にはまだ終わっていないことが多く、それを終わらせて帰宅することになりました。 恨むことなく、黙々と精一杯やりました。

 修煉者の中には「いつも元気で楽しそうだね」と驚かれました。ある修煉者が私に尋ねました、「掃除をしているときに、他の修煉者が大法の本を読んだり、煉功をしているのを見て、どう思いますか?」

 私は微笑みながら言いました、「修煉者にとって、法を学び、煉功をするための時間を確保できる良い職場環境があることは素晴らしいことではないでしょうか。私は仕事の後、家でこれらを行う時間を見つけることができます」

 師父はこう説かれました。

 「実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです」[2]

 私は純粋な心を持ち、人間的な考えで物事を見ない。私の考えは非常にシンプルであることが多いのです。時折、「法」にそぐわない考えが浮かんでくることがあります。このような考えは、真の自分からのものではなく、排除すべきものだとすぐにわかります。座禅をしていると、座った途端に完全なトランス状態になることがほとんどです。私の周りには何もなく、まさに師父のおっしゃった通りです。「ただ自分の思惟があるだけで、わずかな意念だけが自分が今ここで煉功していることを知っています」[3]

 物流の仕事で忙しいにもかかわらず、休憩時間になると、ニュースや真実を伝える記事を書いています。時間が経つにつれ、中国共産党による洗脳の影響がだんだんと弱くなっていくのを感じています。その結果、私はより早く、より良いものを書けるようになりました。

 修煉では、愚かに見える小坊主のように、「愚直」になり、さらに「愚直」になって、神の基準に達し、本来のなるべき自分に戻りたいものです。

 法に基づいていないところがあれば、、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「真修」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために存在するか」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/25/427396.html)
 
関連文章