文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年10月12日】最近、法を学んでいて、修煉者の正念とは、執着を捨てることに関係しているようだと思いました。
師父はこう説かれました。
「人間はまるで一つの容器のようなもので、何かを入れればそれになるのです」[1]
「学習者としては、頭に詰め込まれたものがすべて大法であれば、この人はまさに、真の修煉者です」[1]
師父の教えから、修煉者はミクロからマクロへと続く容器のようなものだと気付きました。この人間の次元では、宇宙の特性(真・善・忍)に同化した佛性と、まだ是正されていない不善の要素があります。修煉者は常に佛性を高め、魔性を抑制したり、解消したりします。修煉とは、執着を取り除き、佛性を強めるプロセスであり、その結果、私たちはより慈悲深くなり、容器はより純粋なエネルギーを保持することができるのです。
私は修煉者が書いた記事を読むと、師父と大法への信仰に基づいて、本当に正しい考えと正しい行動をしていることが分かります。人々を救いながら、師父に手伝うために素晴らしいことをしています。それに比べて私は、それほど強い正念を持っていないと感じています。例えば、修煉者は人を救うことで最も正しいことをしているのだから、誰も邪魔することはできないと思っています。しかし、真実を明らかにしたり、パンフレットを配ったりすると、「この人は私のことを警察に通報するのではないか」「監視カメラがあるから私は目をつけられてしまうのではないか」といったマイナスの考えが頭をよぎります。監視カメラが普及した今、私は目をつけられているのではないか? これは「偽りの自分」が邪魔をしているのだと分かっていましたが、その考えは消えなかったのです。
ある日、私は自分の正念が強くないのはなぜか、この精神状態の原因は何かと考えていました。その時、私の心の中にある物質が現れ、その物質は私が手放すことのできないものでした。私の正念が強くないのは、常人のものを大切にしているからだと気づきました。大法修煉者は、修煉の中で常に魔性を取り除き、佛性を豊かにすることが求められます。魔性、つまり悪い物質を取り除くことで、佛性が豊かになり、それがより強い正念となって反映されるのです。
このことに気づいた私は、なぜ自分が世の中のものに執着しているのかを調べてみました。それは「欲」が原因だとわかりました。この「欲」とは、私利私欲への執着を端的に表したものです。この「欲」のために、人は現状に満足することができません。私利私欲への執着から、自分の利益を考えるようになり、思想業が増えていくのです。その時に、法の勉強についていけなかったり、心性が上達しなかったりすると、この目に見えない負の物質に支配されてしまうのです。ちょうど悪夢を見ているようなもので、主意識が緩むと、その負の物質が出てきてトラブルになるのです。
師父が法輪大法を教えてくださったのは、私たちの主意識が功を得るためです。主意識が緩めば、人は悪の道を歩むことになります。私は時々、「20年以上も修煉しているのに、師父が説かれた法はこんなにもはっきりしているのに、なぜ私はまだ人間のことを真剣に考えているのだろう」と思うことがあります。自分がサボっていることはわかっています。なぜ修煉者が獅子のように勇猛精進に例えられるのでしょうか? 獅子は、目標を定めたら走るのをやめないからです。しかし、なぜ私はサボっているのでしょうか? それは、法をよく勉強していないからです。
師父はこう説かれました。
「法があるので、どのようによりよく行うかを分かっています。法があるので、間違った道に走っていかないのです。同時に、法も皆さんを成就させています」[2]
法をよく学ぶことは、修煉者の上達を保証するものであり、法をよく学ぶことは、師と法への信頼の現れでもあります。 人間的なものが取り除かれるほど、法が私達自身の「容器」に満たされ、私達は法と同化する要素がどんどん増えていきます。
個人的な認識ですが、次元が限られています、適当でない所があれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
[2] 李洪志師父の経文:『ドイツ法会へ』