無条件に内に向けて探し、修煉の玄妙さを体験
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2021年10月18日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は、2019年5月に大法修煉に復帰しました。それからの1年は感謝に満ちていて、私は日々の修煉の喜びと幸せに包まれていました。しかし、2020年3月になると様相は一変しました。様々な困難に遭遇し、修煉の難しさと苦しさを体験することになりました。1日として楽しい日はなく、毎日を心性を高める魔難の中で過ごしていたと言っても過言ではありません。しかし、そうした貴重な魔難こそが、私に修煉とは何かを理解させてくれたのでした。

 毎日を厳しい試練の中で過ごしており、苦痛は日常になっていました。多くの細かなことまでは思い出せませんが、いくつか典型的な例を挙げてみます。

屈辱の中で内に向けて探す

 私は、同修に修煉以外のことをあまり話しません。仲の良い同修も、私の中国での仕事の詳細を知りません。2020年10月のある日のこと、かつて中国での仕事を通じて知り合ったA社長が私に連絡してきました。ある型式の中古飛行機10機を北米で探してほしいと依頼してきたのです。彼は中国のある航空事業の公募入札に応募することを考えていました。私は、その依頼を承諾しました。

 承諾した後、何かおかしいと思いました。A社長の経済力も知っていることもあり、騙されることを心配したのではありません。そうではなく、その時に『悪魔が世界を統治している』という本を読んだばかりだったからです。その本には、中国共産党(以下、中共)のグローバル戦略について書かれていました。一方、例の航空事業の発注者は中国の国有企業です。中国政府の企業が外国の飛行機を買収することに助力するのは、中共のグローバル化の野望に協力することに等しいのではないか、修煉者としてこんなことをするのは間違っているのではないかと思いました。しかし、この依頼のマージンはとても大きいものでした。私はどうすれば良いか迷ってしまい、どう悟れば良いか分かりませんでした。

 私は、今回の依頼について同修Bさんに電話で相談しました。しかしBさんは私を嘲笑し、「自分の身分と能力を顧みてごらん、こんな大きなビジネスがあなたに巡ってくることがあり得るだろうか。きっと詐欺だよ」と言って、多くの詐欺事例を挙げました。

 この問題はこのビジネスの真偽ではなく、修煉者としてやって良いか悪いかの問題だと私は反論したくなりました。Bさんは私のかつての仕事を全く知らず、主観的に私を批判し、説明の機会さえ与えません。最後にBさんは「一つだけ聞くが、こんな良い機会をその社長はどうしてあなたに与えるのか、あなたは何か特別な人材でもないのに。彼はきっとあなたに気があるからだ」と言いました。侮辱されたと思った私も冷静さを失い「そうですか!」と答えてしまいました。結局、Bさんはさらに怒って言葉遣いも激しいものとなりました。 

 Bさんの侮辱に、私は何も言えなくなりました。Bさんは全く事情を知らずに私に説明の機会も与えず、反論できない私は言われっぱなしでした。電話を切った後、私はなぜ自分の心が動じたのか、なぜこんなにつらくて「冤罪」を着せられたような悔しい思いをするのかを考えました。そして気づいたのは、私に何らかの執着心があるのだろうということでした。

 私は師父の言葉を思い出しました。「皆さんが知っているように、修煉者がいつも話していることですが、あなたにその心があれば、心が動じるのです。その心がなければ、風が通り過ぎたかのように、何も感じません。あなたが殺人、放火しようとしていると言われたら、それを聞いて面白いと思い、(師父が笑って) ありえないことだと一笑に付します。全く気にしません。なぜなら、あなたにその心がないから、この話に刺激されることがありません。その心がなければ、あなたを刺激することができません。心が動じれば、あなたにその心があることを物語っています! 心の中で本当に不平を感じていれば、この心が小さくないということです。(拍手) それなら、修めるべきではありませんか?」[1]

 そこでBさんとの電話での会話を思い出し、自分の執着心を探してみました。しかし、どこに問題があるのか分かりません。なぜなら私は誰に対しても堂々と接しており、人の好意を利用して金を儲けようとする気持ちを絶対に持っていなかったからです。むしろ、そんなことを避けていたのです。

 とにかくメッセージを送って、Bさんに事情を説明しようと思いました。Bさんが聞くか聞かないかは問題ではありません。Bさんが聞かなければそれでもよかったのですが、この事にはきっと私が修めなければならないことがあるに違いありません。そこで、私は長いメッセージを送信して事情を説明しました。私の中国での仕事は、投資および企業の再編、合併買収や国有企業の体制改革に携わるものでした。その縁で、数十億、数百億の資産を持つ富裕層と知り合っています。携わった投資プロジェクトは、みな数億の金を動かすものでした。仕事の付き合いで、資産家の大半は私の人柄を認めて信頼してくれています(当時、修煉を止めていましたが、それ以前の修煉における基礎があったため、できるだけ大法の基準で自分を律していました)。そのため、彼ら個人の投資をする際、私を代理人にすることもありました。しかし、人の好意を利用して金を稼ぐようなことを、私がするわけがありません。その日、社長と電話した全てを主人がずっとそばで聞いており、すべて知っています。そして最後に、今回の誤解にはきっと私が除去すべき執着心があり、そうでなければBさんの話を聞いたからといってここまで悔しい思いをするわけがない、と送信したのです。するとBさんが返信してきました、Bさんの態度も少し軟化し、前回ほどの攻撃的な言葉遣いではなくなりました。

 一方、Bさんとやり取りしているうちに、A社長との電話の最後で、A社長が「今度ビデオチャットをしよう」と言ったことを思い出しました。私はとても不本意でしたが、断りもしませんでした。せっかくのビジネスチャンスを与えてくれたので、礼儀として断れないと思ったからです。とっさのことでしたが、自分の執着心を見つけました。Bさんの言うとおりで、私は本当にずるくて深く隠していたのですが、男性の好意を利用して金を稼ぐ心がありました! Bさんがあれほど刺激的な言葉で指摘しないと、私はその不純な執着心に気づくことができなかったのです。

 私は、Bさんに感謝のメッセージを送りました。Bさんも恥ずかしくなって「ごめんね、こんなに率直で激しい話し方は久しぶりだ、普通の人ならきっと耐えられないと思う」と返信してきました。私は「こんな話し方をしたのは私のためで、私の執着心のために焦っていたから。これから話し方に気をつければいい」と慰めました。その時、先ほどまでの悔しさや屈辱感は完全になくなりました。このような方法で私の執着心に気づかせてくださった師父への感謝しかありません。

 A社長の依頼を受けて良いかどうかについて、結局のところBさんはアドバイスをしてくれませんでしたが、私にはその答えが分かりました。私は、A社長の依頼を断りました。主人はそれを知って不機嫌になりましたが、私は理由をあげて主人に説明しました。一つには、これは中共国有企業のプロジェクトであること、もう一つには、これが中共のグローバル化の野望の実現を助けることになること。最後に、私は大法弟子として不正なことをやってはいけないと説明したのです。

 翌日、私の会計士が昼の11:30に彼の事務所に来て税務申告するようにと連絡してきました。私が訪れると、12時には次の来客があると告げました。そして12時になると、驚いたことに昨日私を「棒喝」したBさんが来ました。Bさんが12時の来客だったのです。2人とも驚いて、世の中にこんな偶然なことがあるのかと思いました。これは、師父が私たちに与えた仲直りの機会だと思いました。

 私たちは、一緒に昼食をとりました。食事中にBさんの奥さんが「あなたは一生、主人に口を聞かないかと思った」と言ったので、私は「修煉者の間に隔たりがあってはいけません。ましてBさんが言ったのは、同修である私の向上のためですから」と答えました。私とBさんを言い合いの翌日に仲直りさせるために、このような絶妙な按排をされた師父に感謝いたします。

職場環境で屈辱を忍ぶ

 偶然なことに同修がアルバイトの仕事を紹介してくれました。面接を受けて無事に採用され、3カ月の試用期間が始まりました。期間中の時給は15ドル、一日の勤務は4時間です。仕事内容は、メールを送ったり政府部門に電話をしたりするぐらいと聞いていました。

 しかし仕事を始めてすぐに気づいたのですが、実際の仕事は聞いていた内容と全く違いました。スタッフは私1人しかいません。在庫整理や商品の移動、重いペンキ缶の運搬、ペンキの補充、大理石の運搬、内装した現場の掃除など、すべて私が行いました。仕事を終えて帰宅すると、髪にほこりや石灰がたくさん被っていることがよくありました。上司は、いつも私にできそうもない仕事をたくさんやらせようとプレッシャーをかけてきました。

 ある日、ボスが写真を送ってきてました。そして、ポスターをデザインするようにと指示してきました。私は、専門的なソフトがないとできないと断りました。それを聞いたボスはとても不機嫌になり、何としてもやるようにと言いました。私は、仕方なく自腹でほかの事務所に依頼し、その作品をボスに渡しました。それから、ボスは日本から輸入されたお酒の説明書の翻訳も私に指示し、プロのような、美しい表現でなければならないと要求しました。私が「専門の翻訳者に依頼したほうがいい」と言うと、ボスはまた機嫌が悪くなり、「何もできない人を雇い、人件費を無駄に使った」と私を叱りました。ボスが翻訳の経費を惜しむので、私は自腹で翻訳会社に依頼してみようと思いました。そして結局、ボスに翻訳文を渡しても感謝の言葉はもらえませんでした。こんなことがよくあったのです。その後、主人と同修らがこのことを知ると、時給もあまり高くないだけでなく、雑用も多く、いろいろできないこともやらされているのだから、早くこの仕事は辞めたほうがいいとアドバイスしてくれました。

 私は迷いました。当初、こんなに低賃金の仕事を受け入れたのは、この仕事で多くの中国人に接触することができ、真相を伝えることができると思ったからです。これが唯一、この仕事を続けていける原動力でした。しかしある日、ボスに宴会の付き合いを頼まれました。宴会の出席者10人の内、女性は私たち2人だけです。食事をしていると、15ドルの安給料をもらっている自分は、こんな飲み食いの伴もさせられて、男性たちの軽薄な冗談も聞かされなければならないと思うと、心がとても苦しくなりました。男性たちの冗談は私にとっては侮辱的で、軽率な女と思われてしまうような気がしました。しかし、食事中は頭にずっと四字熟語の「忍辱負重(恥を忍んで重責を担う)」が浮かんでいました。

 次の日、ある同修に宴会のことを話しました。そして、こんな屈辱なことまで忍んで働くことで、私は何を向上させていると思うかを聞きました。同修は、中国のある女性大法弟子が国内の留置場で屈辱を受けている中で、自分の強い自尊心を見つけたという内容の交流文を私に共有してくれました。そして「もしかしてその人たちと接する中で、あなたは何も言わなくても、大法弟子がやるべきことを黙々とやるだけで、言うべきことと言うべからずことをしっかりと把握するだけでも、後日あなたが大法弟子だと知った時に、彼らは大きな感銘を受けるかもしれない」と言いました。私はよく内に向けて探してみると、周りからの評価を気にしすぎ、周りから悪く思われないために必死に振る舞うという執着心があると分かりました。それは強すぎる自尊心、自我です。

 私は、試用期間が終わるので退職を申し出ました。仕事の最終日も、ボスにある事で誤解されて容赦なく叱られました。その事が私のせいかどうかは別にして、私はボスの立場に立ってボスを理解し、成長させてくれたと心から謝り感謝もしました。私の謝罪と感謝の気持ちは、心からの誠実なものです。私が大法弟子だとボスも知っているので、修煉者としての自覚を持っていつでも大法の素晴らしさを人々に伝えたいと思いました。

家庭の難局で向上

 仕事や同修との間でトラブルが発生したら、すぐに内に向けて探さなければいけないと意識できます。そのようなトラブルは毎日あるわけでもないし、本当に乗り越えられないなら、一時的な対策として避けることもできます。しかし家庭内の魔難は、朝目を覚ましてからずっと存在するもので、その関を乗り越えられるかどうかにかかわらず、直面しないといけません。

 主人はとても私の修煉を応援してくれており、師父と大法を信じ、同修たちを尊重し優しく接している人です。しかし私にだけは、日常生活のあらゆる面で難癖をつけてきます。

 毎朝起きてから、私1人で3人の子供の世話をします。午前8時過ぎに子供たちを見送り、午後2時過ぎには迎えに行きます。ほかの時間に食事の支度、バイト、学法、大法の仕事をします。細々としたことを全部やり終えて、夜10時に子供たちがみんな眠りにつくと、ようやく自分の時間ができますが、その時にはすっかり疲れ切っています。

 一日を通して主人はあまり手伝ってくれません。それだけでなく、いつも些細なことで私の至らない点を非難します。私が作った食事は肉と野菜の組み合わせが悪いとか、いったい母親を何年やっているのか、こんなこともできない等。私を褒める言葉を一度も聞いたことがありません。主人は家にいてもソファーに寝転がってテレビを見ているだけですが、毎日のように私や子供を叱ります。1日16時間の重労働をする生活で、私は本当に身も心も疲れていました。一日だけでも休みたいのです。子供の面倒を見なくていい、食事を作らなくていい、家事もしなくていいような一日、たった一日でもそんな日を過ごしたいと思っていました。

 思い切って、とても疲れているので子供の送り迎えをしてくれないかと主人に相談すると、主人は「よくも自分が修煉者だと言っているね。少しでも苦を嘗めたら文句ばかり。もしあなたのような人が円満成就できれば、修煉の基準はどんなに低いものだろうか」と返してきます。毎回「修煉者」と言われると、私はすぐに口を閉じて、言い返さないように我慢し、その場をおさめました。

 しかし、修煉の要求は絶えず高くなるものです。暫くして、主人に叱られて私が口答えをせずに黙々と内に向けて探す時、主人は逆に「耳は聞こえているのか、話かけても返事もしない」と罵ります。ある日、車の中で、主人がずっときつい言葉で私を苛立たせ罵りました。私は必死に歯を食いしばって窓の外を見て、涙を堪えました。これは修煉の関で、業力を消して向上する機会だと分かっていたからです。

 しかし本当に我慢もし難いものです。涙を堪えているので不意に喉から声を漏らしてしまい、主人に聞こえました。主人はすぐ車内音楽のボリュームを最大にして、「訳が分からない人」と言いました。その時、私は心臓が爆発しそうで、もう歯も食いしばることもできず、すぐにでも号泣したくなりました。しかし、そうはしませんでした。主人の言動は、私を向上させるためだと分かっていたからです。

 「いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません。相手の話は非常に刺激的かもしれませんが、あなたの痛いところに触れたから、刺激的だと感じたのです。本当に不当な扱いを受けたかもしれませんが、その話は必ずしもその人が言ったのではなく、私が言ったのかもしれません。(皆笑って) そのとき、あなたがどのようにこれらのことに対処するのかを私は見ており、相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります」[2]。

 私は心の中で師父に「師父、今日のような向上の機会を与えて下さってありがとうございます。師父、心配しないでください。私はきっとうまく乗り越えますから」と言いました。すると、天目にこんな画面が現れました。天国世界にいる私の衆生は跪いて、彼らの王が心性の関を乗り越えられるように祈っていました。私は心の中で衆生に「皆さん、安心してください。あなたたちの王は必ず我慢できます。王はあなたたちのためにも、きっと今日の関を乗り越えていく!」と話しかけました。その時、心の中の無念、悔しさ、苦しさは一瞬にして無くなり、涙も一瞬にして止まりました。

 その後、家の芝生を全部刈り取って新たに植える作業が必要となりました。これは大きな仕事です。同修がそれを知って、積極的に助けに来てくれたのですが、主人は家の中でただ携帯をいじっていました。年配の同修に申し訳ない気持ちになって、主人にも手伝ってもらおうと思ったのですが、主人は手伝わないどころか、かえって私を庭に押し出して、「君がやるべきだ! 君は考えが甘すぎて、少しの苦労もしたくないからだ! もっと苦労してこい!」と言って、くわを私に投げてきました。そして自分はただ子供を抱いてそこに立ち、私の草むしりを見ていようとしました。私は本当に腹が立ってたまらなくなり、「あなたはそれでもまだ男と言えるのか、責任感のかけらもなく、朝から晩まで横になって携帯電話をいじるばかり。すべてのことを私に頼って、おまけに私の金も使っている。あなたのために3人の息子も生んだのに、私に一言の感謝の言葉もなく、かえって毎日叱るばかり。もうこんな人と一日も暮らしたくない」と思いました。考えれば考えるほど腹が立ち、くわを地面に投げ捨てたいと思いました。

 私が目の前の関を乗り越えられないのを見て、同修は微笑んで「これは良いことじゃないか。私は今苦労をしたくても、生活に苦労することが一つもなくて悩んでいるのよ。修煉者に起きたすべてのことは良いことではないか」と言ってくれました。

 私の心は、だんだんと落ち着いてきました。主人のことで文句を言うのを止め、芝生を整えました。そうしているうちに、師父の言葉を思い出しました。「皆さんが知っているように、修煉は漏れるところなしを重んじています。漏れがあったとしても旧勢力はあなたを天に昇らせるのでしょうか」[3]。

 今、こんなに苦労するのは、おい立ちの中で、肉体労働の面であまり苦労していなかったせいかもしれません。今の生活でどんなにつらい思いをしたとしても、どんなに苦労したとしても、前世に自分が作った業力の大きさとは比べものにならないかもしれません。もし漏れがあって、自分はそれを補えなかったら、どうやって仏の境地に達することができるでしょうか。「漏れるところなし」という言葉を思い浮かべるたびに、修煉の自信が蘇ります。それこそ私の到達すべき目標です。

 そしてその晩、進んで主人に謝りました。主人は私に、どこが間違っているのか、どのような執着心があったかを説明してくれと要求しました。主人は私に対して本当に「漏れるところなし」の基準で要求しています。執着心を曖昧にしか認識できないことも許しませんし、一つ一つの人心を、はっきりと認識した後に除去するように要求しています。このような師父の按排に感謝しています。修煉が遅れた私を奮い立たせるために、そばにこんな主人を置いて、私が怠けていると、目の覚めるまで主人に鞭のように私を叩かせています。

 ここまで書いて、感激の涙が出てきました。この1年間、主人から受けた理不尽な要求や叱責を思い返してみると、それは確かに私の向上のためで、漏れるところがないように師父が按排してくれたものだと思います。

 実は修煉してから、主人と一緒に各空間に行っている夢をよく見ました。毎回2人はチームを組んで、私は前進することを考え、主人は防御を担当します。2人は絢爛たる宇宙に到達して、師父の足元に跪いて説法を聞きました。先日は、世界最大のクルーズ船で航海する夢を見ました。その船に比べて地球はとても小さく見えるようになって、十数分で地球を一周しました。帰りの際、船長が下船して、「帰りの舵はあなたのご主人に託した、彼があなたを連れて帰る」と言いました。

 人類は本当に迷いの中に生きています。大法弟子は大昔、今日大法を得るためにどのような神聖な誓いを立てたのか、どのような人とどんな縁を結んだのか、全く見えないし分かりません。今、主人と私は利害関係の葛藤にあることも、遠い過去の按排があったからかも知れません。それは彼の使命―大法弟子を成し遂げさせることです。「大法弟子だけがこの世に来るために師父と約束を交わしたのではありません。全てのこの世に来た人、生命、天上から降りた神はみな、私と約束があったのです」[4]。

 振り返ってみると、この1年の収穫は本当に多いです。師父の仰るように「この道を歩む過程に困難があり、各種の試練、思いもよらない魔難と様々な執着及び情による妨害があるからです。この妨害は家庭、社会、親族友人、ひいては修煉者同士から来ており、さらに人類社会の情勢による妨害もあります。この全ての全てはあなたを常人に引っ張り戻すことができます。この全てを突破することができれば、あなたは神に向かっていくことができます」[5]。

 この1年は、私が理性的に修煉とは何かを思考して実践する1年でもありました。かつて円満成就は遠いことのように感じていました。しかし今は修煉に自信を持っており、師父の言うとおりにすれば、すべてがうまくいくと思っています。

後記

 この原稿が完成した時、私は本当に主人への恨みを放下できました。主人の要求に応じ、滞っていた複雑な家事を2週間かけて辛抱強く完成させました。その2週間は大変忙しく、学法や大法の仕事をする時間も確保できなくなり、何かがおかしいと思うようになりました。ある晩、布団の中でこっそり涙を流し、こんな生活がいつまで続くのかと悲しくなりました。

 数日後、主人は私をひどく傷つけた言葉をまた言ったのです。私も我慢の限界となり、師父の肖像画の前に座り、「師父、自分にこんなに大きな業力、返済できないほどの業力があるとは思えません。愚鈍な私にご教示ください」と話しました。頭の中には「きりがない」という言葉が浮かびました。そうですね、主人に対する恨みも捨てたのに、どうしてきりがないほど毎日繰り返しているのでしょうか。

 翌日、明慧ネットのある交流文を読むと、師父の言葉を引用していました。「弟子として、魔難がやっ てくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないのですが、ならば、本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」[6]。

 師父はまた、「私たちは旧勢力そのものが現れたこと、それらが按排した全てまで否定しており、旧勢力の存在自体を認めていないのです。私たちは根本から旧勢力の全てを否定しています。旧勢力を否定し排除する中で皆さんが行った全てこそ、威徳あるものです。それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって、旧勢力そのものによってもたらされた魔難の現れを消滅することさえ認めないのです。(拍手) この角度から見れば、私たちが直面しているのは旧勢力を全般的に否定するということです。旧勢力の瀕死のあがきを私と大法弟子は全く認めないのです」[7]と説かれました。

 執着心を放下した後に再び現れた主人の不当な要求は、旧勢力の迫害によるものだと、一瞬にして悟りました。法を得てから現在に至るまで、これまで経験したすべてのことは、自分の業力が大きすぎて償わなければならないと思ったので、旧勢力の迫害とは何であるかについて、あまり理解できませんでした。しかし、ここ数週間の経験で、自分の業力が大きいことを認めて、業力を消去する必要があるという小さな視点で現状を見るのでなく、法を正す立場に立って魔難に対処しなければならないことを意識しました。ひたすら我慢して、主人が家庭の責任を果たさないことをひたすら甘やかすことも、主人に楽だけをさせて業力を消去する機会を与えないことになります。主人に対しても良いことではありません。

 考え方を正しく整え、自分の悟ったことを主人に伝えました。主人に子供の送り迎えと家事も分担しなければならない、そうすることこそ彼に対する本当の優しさだと説明しました。

 私は観念を変えたことで、主人もすっかり変わりました。毎日子供の送り迎えをして、翌日から積極的に草むしりもしました。これは草刈り機を買ってから1年経って、彼のはじめての草むしりです。十数年前から吸っていたタバコを自主的にやめ、今では2カ月以上も吸っていません。それに朝寝坊もしなくなり、毎日早起きして仕事を頑張ります。私には毎日笑顔で接してくれて、ほとんど叱ることがありません。そして私もやりたいことをする時間がたくさんできました。この大きな変化を見ると、幸福が突然訪れてきた感じがしました。

 師父、ありがとうございます。

 同修の皆さん、ありがとうございます。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法七』「米国西部国際法会での説法」
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
 [7] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」

 (2021年カナダ法輪大法修煉体験交流会の原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/23/429903.html)
 
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