小さなことにも 「男女には距離がある」と注意しよう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年10月18日】私は1996年に修煉を始めました。中共共産党(以下、中共)が大法と大法弟子を迫害したことで、夫は耐えられないほどの圧力を受け、2000年、私に離婚を迫り、当時私はまだ30歳余りでしたが、それからずっと独身です。

 明慧ネットの「男女には距離がある」方面の多くの交流文章はとても良く書けているので、自分も近年この方面で体験したことを書き出して、同修たちと交流したいと思います。不足の所があれば、慈悲なる指摘をお願いします。

 一、同修の間も男女は距離をおくべき

 2008年、ある日の午後、私は男性同修のAさんの家に『明慧周刊』と、真相資料などを届けに行きました。その時私は仕事を辞めたばかりでした。Aさんの家に着き、Aさんと多く雑談しました。ちょうどその時ドアが開いて、Aさんの妻が帰って来て、私たちがソファーに座っているのを見て、すぐに不機嫌になり、「どうして電気をつけないの?」と言いました。その時まだ午後3~4時で、客間はちょうど薄暗くなり始めたころでした。

 Aさんの家から出て、私は道中自分を探しました。私のどこに間違いがあったのか、なぜこの事が出現したのか? Aさんは以前、私の職場でボランティアで法輪功功法指導をしていましたが、1999年に中共が大法を迫害してからも、私たちはずっと連絡を中断していませんでした。いつも同修のBさんが『明慧周刊』と真相資料を私に送り、Aさんにも回すようにと言いました。Aさんはすでに退職して何年にもなり、Aさんの家は市内から遠いのですが、私の職場はAさんの家に近いので、普段Aさんに会う時はいつも約束し、私が仕事に行くために乗るバスの停留所で、Aさんが待っていて、私が車を降りて、彼に資料を渡し、それからまた車に乗り込んで仕事に行っていました。ちょうど仕事を辞めたので、Aさんは私を彼の家に誘ったのです。その結果、彼の妻に誤解され、自分の心もとても辛く感じました。周刊や資料を送ることは、正しくて良いことなのに、どうしてこのようになるのでしょうか?

 ある日、同修のCさんと話をしていたとき、その話が私の心を大きく打ちました。多くの同修が一緒に、ある男性同修の家でプロジェクトの仕事をしていて、次々に同修が帰り、最後に残ったのはその家主である男性と女性同修で、彼らが働き終えたとき、すでにとても遅い時間になりました。女性同修が帰るとき、男性同修は心配で、「もう遅いから、今日はもう帰らずに泊まったら? どうせ家には僕だけだし、あなたはあの部屋で寝て、僕はここで寝るよ。私たちは修煉者だから安心して。何事もおこらないよ」と言いました。この女性同修は考えましたが、やはり帰ることにしました。この女性同修が車で家に帰ると、ドアを開けた時、師父が彼女にある場面を見せてくださいました。その意味はつまり、もし彼女が男性同修の家に泊まっていたら、何事も無かったとしても、彼女の次元は一つ落ちていたでしょう。

 師父は「芸術団の学生に対して、普段男女を勝手に接触させないようにしています。まだ幼い年齢で、男女の付き合いはなおさら禁止されています。他の大法弟子もこれらのことに気をつけるべきです」[1]と説かれました。

 師父は私たちに「他の大法弟子もこれらのことに気をつけるべきです」[1]と教えてくださいました。私が悟ったのは、男女の間は気ままに接触してはいけないのです。男女の交友は、現代の変異した観念です。古人は「男女はあまり親密に交わるべきでない」と言いました。男女の同修はこのように長期に資料をまわして、単独で一緒にいますが、実際は不適切で、世間の礼にも符合しません。神から見ればとてもはっきりしています。容易に他人に誤解を引き起こし、大法にマイナスな影響をもたらします。

 男女には距離があるべきで、男女は一つの部屋にいてはならず、もし私がAさんの妻だったら、自分の夫が単独で他の女性と一緒にいたら、どのように思うでしょうか? これは同修の家庭にトラブルを起こすのではないでしょうか? 無意識に同修の妻を傷つけたのではないでしょうか? 私たちは現在正法修煉のなかにいて、衆生を救い済度する使命があるので、必ず正しく道を歩み、何かをする時は他人のことを考え、人から誤解されないようにしなければならず、そうでなければ人を追い出すことになるのです。

 また、私たちは常人の中で修煉していて、人の情があり、道を正しく歩まず、この方面でだらしなければ、旧勢力に容易に隙につけ込まれ、情、色、欲の方面の執着が強くなり、修煉に損失をもたらします。

 内に向けて探して分かったことは、Aさんは師父の講習会に参加したことがあり、法に対して堅固で、法理が明晰で、私は彼を羨望し、信頼し、好感をもっていました。この羨望、好感は情ではありませんか? 異性に好感を持つことは色欲の心ではありませんか? 今回のことは私への棒喝で、私はすぐにAさんにこの事を法をもって交流し、単独で接触することをやめようと提案しました。それからは他の同修がAさんに『明慧周刊』と資料を届けるようにしました。

 それから私はこの方面で注意し、なるべく男性同修と単独で行き来しないよう、用事がある時は、他の第三者にもそばにいてもらうようにしました。もともと私の家では少人数の学法グループがあり、グループには男性同修がいて、自分は独身であり、周囲の影響を考えて、だんだんと男性同修を家の学法に招かないようになりました。

 二、親戚の間も男女は距離を置くべき

 それから、私はまた民間企業で仕事をしました。ある日、会社が私と同じ名字の大学生を採用しました。話してみると、意外にも彼は私の故郷の会ったことのない親戚(甥)であることが分かりました。それから私は甥に真相を伝え、彼は三退しました。オーナーの奥さんと私は同年代で、甥は彼女を「姉さん」と呼び、オーナーの奥さんは、その呼び方が若く感じるので喜んでいました。

 ある日、甥は、オーナーと奥さんがいるときは私のことも「姉さん」と呼ぶと言いました。これを聞いて、不適切だと思いましたが反対できず、おそらく彼は私のことを「おばちゃん」と言うと、奥さんが気まずくなると思ったのでしょう。しかし別の呼び方でも良かったのです!

 ある週末の午後、私は甥を家に招いて幾つかの料理を作りました。食事が終わって、甥は帰りました。夜、私は突然熱が出ました。私が覚えているのは、修煉し始めたとき、何度か消業の熱が出ましたが、それ以外、何年も熱が出たことはなく、心の中で自分の修煉に対して何か問題が出たのだと思いました。

 考えれば考えるほど、甥を家に招くべきではなかったと感じました。古人の言葉に「男女には距離がある」とあります。男女だけで同じ部屋にいてはならず、同居してはならないのです。私は独身で、甥とは親戚ですが、しかし男女が2人きりでいることにはやはり不適切で、容易に肉親の情を助長し、容易に非難を引き起こします。

 修煉者は自分に厳しく要求しなければならず、特に情や色欲の面では尚更注意し、必要なとき以外は接触しないことです。執着心が繁殖し、邪悪に乗じられるのを避けるためです。私は内に向けて探し、学法し、発正念し、早く気づいたので事なきに終えました。

 ある日、私の頭の中に突然「近親相姦」という言葉が出てきて、それを聞いた私は飛び上がりました。

 師父は説かれました。「改変された観念により、邪党の文化から注ぎ込まれた考え方で物事を考えるようになります。完全に人間の理念、人間の文化を捨てた人間は、変異した生命になり、淘汰される対象になっています。中国五千年の文明と歴史により、人間のすべての文化や思想、行為を築き、しかも、神は系統的にこのすべてを造ったのです。しかし、このすべては旧勢力に支えられている邪党によって台無しにされ、破壊されてしまいました」[1]

 「最も悲しいのは、現代の若者です。彼らは完全に中共邪党の現代意識を注ぎ込まれたのに、まだ自分が偉い、何でも見抜いていると思っており、中共邪党に目的をもって破壊された人間関係、価値観、倫理道徳の混乱現象を歴史上の人類本来の状態と人類の本能だと思い込んでいます」[1]

 私は悟りました。大法弟子は、師の正法を手伝う法徒であり、この世の全ての不正を正します。甥が私を「姉さん」と呼ぶことは、伝統的な価値観に符合せず、世間の倫理道徳に反しています。世間の倫理道徳は神が人に定めたもので、倫理道徳に反することは近親相姦で、変異したもので、神によって淘汰されます。私はなぜこの正しくない呼び方を承認するのでしょうか? これは邪悪に好きにつけいられているのではありませんか? 邪悪は私が注意しない状況下で、それを口実にして私を駄目にするのです。

 師父の、弟子に対する慈悲なる啓示に感謝します。ありがとうございます! 修煉は本当にとても厳粛で、一思一念、一言一行を全て自分に厳しく要求するのです。それからまもなく、甥はオーナーに外地へ配置され、技術支援を担当することになりました。

 三、同僚の間にも男女には距離があるべき

 2014年、私は清掃の仕事をしていたとき、ゴミ箱の中に、革製のサンダルを見つけました。見てみるとどこも壊れていなくて、捨ててしまうのは惜しいと思い、誰か履ける人はいないかと思い、上の階の男性清掃員に渡しました。それから私は彼に真相を伝え、三退しました。

 ある日、1人の女性が仕事場に来て、男性清掃員を探していましたが、見つからず、私に苦しみを訴えてきました。彼女は彼から「破れた靴」と罵られたのです。この言葉は別の意味(貞操のない女)を含んでいました。彼女が出て行ってから、私は考えました。この言葉をなぜ聞くことになったのでしょうか? もしかして私に問題があるのでしょうか? 私は革製サンダルを拾ったことを思い出し、何も考えず不適切だったと思いました。

 師父は説かれました。「専ら善事を行うも、やはり是の為にす」[2]

 師父はかつて『各地での説法九』の「新唐人テレビ討論会での説法」で、ある質問に答えられました。「弟子:マスコミに関わる弟子の多くは若者で、男女関係の度合いを適切に扱うことができなかったため、自分の修煉と周りの環境に大きな影響を与えました」、「師:このことに厳重に注意すべきです。大法弟子はこの面で正しく行なうことができず、関を乗り越えることができず、自分の道をしっかり歩むことができなければ、自分に泥を塗るだけでなく、大法弟子全体にも泥を塗ることになります」[3]

 大法弟子は心が善良ですが、しかしやはりこのような有為のことをするべきではなく、男女には距離があり、親密に関わるべきでなく、主導的に男性に何かを贈ったりするのは不適切で、相手に気を持たせるかもしれず、また容易に人から誤解を引き起こします。これは礼に合わず、道を正しく歩んでいません! どうりで休憩しているとき、彼は私の所へ来てあれこれを聞いていました。実際は自分が良く出来ていないから招いたことです。

 このような事は利益心によるもので「捨てては惜しい」というのは、物質利益に執着しているのではありませんか? 何かを得れば必ず何かを失い、靴を無料で拾ったことを良い事だと考えていましたが、実際は德と交換していたのです。私はこの事を「人」という基点に立って考えたため、自分に面倒を招いてしまったのです。

 それから私は、会社で衣服や、何かを拾った時は、一カ所に積んで、同僚たち皆を呼んで、彼らが自分で選ぶようにさせ、残ったものは捨てました。

 四、友人の間も男女は距離をおくべき

 ある日の夜、とてもはっきりした夢を見ました。夢の中で1人の男性と1人の女性を見て、女性は両手に食べ物を持っていて、その中の一つを男性にあげました。この情景を見て、私は夢の中で大声で「この2人の関係は絶対に普通じゃない!」と叫んで夢から覚めました。心の中で思ったのは、もともと男女が一緒に、2人だけでご飯を食べるのは、他の人が見たら、それは彼らの関係が普通ではないと思わせます。これは非常に厳粛な問題で、自分は以前どうして分からなかったのでしょうか? これを私に啓示されたのはなぜでしょうか? 自分がこの方面で意識できていない問題があるのでしょうか?

 私は思い出しました。おそらく2017年、私の家は改修工事をして、店長は友人からの紹介でした。その過程で、私は数人の作業員に三退をしてもらいました。当時家のガス、水道、電気が皆停止していて、2回とも昼ご飯のとき、仕事をしていたのは1人の作業員だけで、私は彼を連れて一緒にご飯を食べに行きました。その時思ったのは、彼らは皆縁のある人で、大法を理解し、三退し、仕事をするのも大変な事で、彼らに善を持って接し、良い印象を残そうとする名を求める心がありました。

 師父は説かれました。「大志を懐きながら細かいことに配慮し」[4]、「旧勢力、旧宇宙は何を最も重く見ているのでしょうか? まさに色欲であり、男女間の問題、このことを最も重く見ています」[5]

 今思い出してみると、このやり方はやはり適切ではなく、有為で、容易に誤解を引き起こします。私はお金を彼らに渡して、彼ら2人に、自分たちでご飯を食べに行かせるべきでした。また昔、合弁企業と私営企業で、時に食堂か店で食べるとき、自分と男性同僚は2人きりで机で食べましたが、実際はやはり不適切でした。

 どうして何度も「男女には距離がある」の心性の関に遭遇するのでしょうか? 学法と明慧交流文章を通して、私は根本的な問題が何かが分かりました。常人の時、現代の変異した観念の影響を受けて、男女の付き合いの伝統的な礼儀を重視せず、とても軽率で、好き勝手にしていました。夫と証明書がないまま同居し、離婚してから労働教養所で「転向」し、前夫と復縁を望み、また証明書がないまま同居しました。新たに修煉してから、なるべく色心を取り除くように修め、同修たちにこのことを暴露しましたが、しかし深く根を掘っておらず、この正しくない人心を引き起こしたことをはっきり認識せず、観念を変え、発正念して取り除いていなかったので、これらの空間場にまだ良くない物がありました。今私はそれを暴き、解体します。

 私は普段とても色心に注意していますが、しかし修煉の中で、上に行けば行くほど要求がさらに厳しくなり、色心の表れも異なり、さらに難しくなることに気づきました。不適切な男女関係だけが色心ではなく、例えば、美男美女を見るのが好き、きれいな衣服を着たり、異性に好感をもったり、時に思想の中で正しくない一思一念が出て、たとえ一つの動作、一つの目つき、細かく分析すると、どれも色心の影を見つけられます。もし自分が意識出来なかったらどうやって取り除きますか? ですから法を良く学ぶことが最も重要なのです。

 私たちはまだ圓満しておらず、人間の中にいて、情の中に浸っており、情があれば色もあります。良く修めた部分は隔離され、残ったのはまだ修煉出来ていない部分で、しっかりと修めなければいけません。時に色の関を乗り越えて時間が経つと、同じような色の関がまた来ます。ですから色心を取り除く方面では、特に男女の付き合いは、緩めてはならず、必ず自分に厳しく要求しなければなりません。

 以上が私の最近の修煉体験です。法に則っていない所があれば同修の慈悲なる指摘をお願いします!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩 :『洪吟』「無為」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「新唐人テレビ討論会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「聖者」
 [5] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/5/432205.html)
 
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