文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年4月28日】長年にわたり、私はしばしば涙を流す目を見てきました。多くの場合、それは静かに私を見つめ、一粒の豆粒のような涙が重く垂れ落ちてくる光景でした。時には、涙で満ち溢れた片方の目が一瞬現れては、すぐに消えてしまうこともありました。
誰が私を見ているのかは分かりません。というのも、私に見せられるのはいつも目だけで、顔は見えないのです。そしてそれは往々にして、私が何か過ちを犯した時に現れます。その度に私は心を震わせ、しばらくは正気に戻れないほどでした。
特に印象に残っている出来事がいくつかあります。例えば、まどろみの中、私の心身が色情の魔に乱された時、突然、山が崩れ海が鳴るような激しい泣き声が私を目覚めさせました。すると、滝のような涙が流れ落ちてくるのを見たのです。私はその瞬間、はっとして、色欲の妄念をすぐに断ち切りました。
またある時、夢の中で、ある女性が硬直した体で目の前にうずくまっている姿を見て、私は恐怖で目が覚めました。その意識の中で、哭魂「こくこん(泣く魂)」という二文字が脳裏に深く刻まれました。私は慌てて、日中に自分が何をしたのかを思い返しました。家族と一緒に寺院に入り、興味津々であちこち見て回った――すでに「不二法門」の禁を破っていたのです。だからあの女性は死ぬほど泣いていた(おそらく比喩的な意味で、悲しみと失望の極みだったのでしょう)。私は恐れおののき、同時に耐えがたいほどの哀れみを感じました。
さらに別の時、私は嫉妬と争い心から、親しい友人を激しく嘲笑してしまいました。友人は激怒してドアを叩きつけて出て行きました。その後、私は涙で顔がぐしゃぐしゃになっている姿を見ました(この時だけは顔全体が見えました)。それは、まさに佛の顔だったのです! 私は恥ずかしさのあまり地に伏したくなり、自分の愚かさを痛感しました。
こうした数々の体験は、私に深い内省を促し、自分の内側を見つめ直すきっかけとなりました。そして、あの涙を流す目は、師父が慈悲をもって私に啓示を与えてくださっているのだと気づいたのです。そこには衆生の期待、想い、心配が込められており、あの涙の目は、宇宙から発せられる悲鳴であり、天の彼方から届く嘆きの声だったのです。その涙の心の声に耳を傾けましょう――「誓いと託された願いを忘れないで、必ず成し遂げてください」と。
師父の啓示は、修煉者としての責任の重大さを私に強く認識させました。この責任の背後には、数えきれないほどの衆生の未来が懸かっているのです。大法弟子の修煉がうまくいくか否かによって、衆生が救われるかどうかが決まるのです。三つのことをしっかり行うには、まず法をよく学び、自分をよく修め、妄念を断ち切らなければなりません。今、宇宙のごみや変異した旧勢力が、大法や師父、大法弟子を攻撃し中傷しているこのとき、私たちは勇敢に立ち上がり、法を正しく堅く守りましょう。王のように天を支える柱となって、最も正しく、最も強い正念を発し、邪悪な魔や幽霊どもを瞬時に粉砕しましょう。
使命を担う者が、どうして時を無駄にしてよいでしょうか。師を助け、衆生を救うことを、 どうして軽く考えてよいでしょうか。あの涙を流す目を仰ぎ見て、私は心に誓います――その澄んだ涙が、ため息に変わることのないように。私の心はますます強くなり、志はますます勇ましくなるのです。