年末年始や祝日は、大法弟子が衆生を救うことでとても忙しい時期です。しかし近年、緊迫していた環境がゆったりしてくるにつれて、一部の隠れていた人心、特に安逸心が膨らんできました。
2013年のお正月の間、私は自分を緩め、家族と一緒にテレビドラマを見てしまいました。見るべきではないと思いつつ、「時代劇だし、過去の宮廷の出来事を描いているだけで、邪党のものではないから、少しなら見ても大丈夫だ」と自分に言い聞かせました。
見始めた頃、爆発音がよく聞こえていて、ガラスを割る音だと勘違いして、時々窓際に行って外の様子を眺めました。夫(常人)に何を見ているのかと聞かれて、私は「どこかの家がリフォームでもしているのでしょうか? ガラスを壊す音が耳をつんざくように響いている」と答えました。すると、夫はじろっと私を見ました。「こんなに大きなガラスを割る音だよ。聞こえないの?」と私が聞くと、彼は不機嫌に「聞こえない!」と答えました。実はそれが啓示であり、修煉者が貴重な時間をテレビを見ることに費やし、さまざまな執着心を膨張させるのは、自身及び衆生に対する無責任であり、自滅でもあるという私へ知らせでした。しかし、当時の私は悟ることができませんでした。その音は、自分のある世界からの爆発音でした。
その後の数日間、私は過ちに固執して悟らず、テレビをずっと見続けていて、知らず知らずのうちに情愛や争いの場面が満ち溢れるストーリーに耽溺してしまいました。実はその際、画面にはしばしば人間でも獣でもない奇妙なものが現れてきていましたが、「目がかすんで良く見えない」と、私は自分に言い聞かせました。その現象はその後、ますます頻繁に起こるようになりました。
ついにある日、人間でも獣でもない奇妙なものの出現とともに、不気味で引きつったような唸り声が聞こえてきました。「よくも私の領域に侵入してきたな! 君を1万年押さえつけてやる!」。その陰気な声が繰り返し響く中、私は体が鬼や獣に囲まれているように感じ、はじめてやっとテレビを見るのをやめました。
しかし、修煉には小さいことはありません。「テレビを見る」ことは、私が考えていたように「見たら見たで、見るのをやめればそれまでだ」というほど簡単ではありませんでした。妨害がすぐにやってきました。
学法のとき、私は心が静まらず、正念を発しても煉功していても、頭の中はテレビドラマのシーンでいっぱいで、抑えることも片付けることもできず、身をもって師父がおっしゃった「神を招くのは易しいが、送り出すのは難しい」[1] を実感しました。
さらに驚いたことに、数カ月後、私の頭には皇帝の妃選びのシーンが現れ、私自身が妃になっていて、しかも皇帝に選ばれたのです。この状態が憑き物のように私の思惟を支配し、妄想が手綱の外れた野生馬のようになっていて、三つのことの実行も妨害されました。まさに自分の人心が邪念を招いたのです。
二、明慧ネットの文章を読んで、「テレビを見たい」気持ちの背後にある色欲の心に気づく
悔やんでも悔やみきれず、苦しい中で私は自分を正そうと決意しました。学法と発正念の時間を延長したほか、私は明慧法会の文章、交流文、大法の歌および『九評』のMP3音声をダウンロードし、学法してからこれらだけを読んだり聞いたりして、邪念が私の空間に入るのを防ぐようにしました。また、私は毎日明慧の文章を読み、魔難を乗り越えるよう師父に加持を求めました。
ある日、明慧ネットで「意淫(精神的な姦淫)を戒める」という文章を見つけ、何度も読み返しました。そして、同修の文章をもって私を目覚めさせて下さった師父に深く感謝しました! それがまさに私の問題でした。私はさらに意淫や色欲に関する多く文章をダウンロードし、そこから警告と浄化を受け、自分の以前の多くの考えや行動に色欲の要素があったことを認識しました。
さらに私が気づいたのは、一部の不正な要素が長い間自分の人心や感覚に隠されていて、人心によって「使えるもの」に育てられたとき、邪悪はそれを利用して修煉者を妨害し、だめにしてしまう可能性さえあります。このことから、自分の一思一念をしっかりと把握することがいかに重大なのかが分かります。
また、明慧ネットの色欲心に関する文章をあまり読まなかったことを後悔しています。自分にはそのような心がなく、関係がないと思い込んでいました。実際、明慧ネットの多くの交流文章やテーマ別小冊子は、修煉の中で回り道を少なく歩むことに大いに役立つもので、多く読むべきです。
思えば、テレビを数日間見ただけで、私は半年以上も時間をかけて妨害を取り除き、やっとその魔難を乗り越えました。その間、さまざまな妨害があり、日常生活まで影響が及んだのです。例えば、税務署の男性5、6人が突然私の会社に押しかけ、何も言わずにオフィス内のすべての書籍(常人が読む本)を2つの土のう袋に詰め込み、社用コンピューターのハードディスクと一緒に持ち去りました。家族が問いただすと、彼らは「通報を受けた」と言いました。私は、修煉者である自分が見るべきでないテレビを見てしまったせいで妨害を招いたと考え、「テレビを見たがる」心の裏に潜む安逸心、色欲心、情を見つけました。その後まもなく、税務署員は会社の書籍とハードディスクを返却してくれました。
三、師父の教えを肝に銘じ、自己の耳目をしっかりとコントロールする
師父はこのようにおっしゃっています。「皆さんは知っていますが、聞いた、見たとは何でしょうか? 人間が思っているようではなく、見終わったら終わりで、それを自分のものにしたのではなく、聞いてもそれを求めたわけではなく、何事もなかったということではありません。いかなるものも物質で、聞いたらそれが注ぎ込まれ、身体の中に注ぎ込まれたのです。見たら、それが入って来たのです」[2]
先日、『法輪大法学会からの通知』をもう一度読み、自分の誤った認識を正しました。これまで、同修が運営するいくつかのウェブサイトも『大法のサイト』だと思っていましたが、今は明確に分かりました。大法のサイトは、法輪大法ネットと明慧ネットの二つだけです。
邪党がどんなにネットを封鎖しようとも、明慧ネットは決して封鎖されることはなかった理由も分かったのです。そして、常人のニュースなどに執着しない周りの同修は、毎日問題なく明慧ネットにアクセスでき、読むことができています。
最後の時期にあたり、自分の耳目をしっかりとコントロールし、明慧ネットという大法弟子の修煉と交流の窓口を大切にし、三つのことをしっかりと行い、多くの人を救い、師父が広大な慈悲をもって引き伸ばして下さった一分一秒を無駄にせず、衆生の期待に応えることができるよう頑張りましょう。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーの説法』