文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年4月16日】私は以前、色欲に対する心がとても淡白だと思っていて、大学を卒業するまで恋愛をしたことがなかったのです。 異性に対しても、金持ちや容貌が優れた異性には微塵も魅力を感じたことがありません。 修煉が深まるにつれて、自分が好むのは、能力の高いタイプの人だと気づきました。 これも色欲ではないのか? この色欲心を捨て去るにはどうしたらいいのだろう? 懸命に考えた末に、この色欲心を持たないためには、自分の物差しの基準を修正しなければならないと思いました。できる人とできない人を私は分別してはならないと考えました。異性に対してだけではなく、同性に対してもそうでなければなりません。
しかし、同じであるはずがないのです。 私は自分のことを能力のあるほうだと認識しているため、能力のない人を見下すことがよくあります。 修煉後、その心を取り除く努力を主にしてきたものの、根本から取り除けていないような気がします。 どうしたらこの考え方を根本から変えることができるでしょうか? 私は師父の手助けをお願いすることにしました。
夜、私は夢を見ました。夢の中で、師父が私に、神が文筆力を与えた人のことを呈示してくれました。その能力を得た人はすぐ文章が思いつき、書きたいことが何でも書けるようになり、書く内容も非常に巧みで要領を得ていました。 しかし、神はその能力を取り去り、するとその人は何も書けなくなったのです。
目が覚めたとき、私は夢の中のその人が自分であるかのように感じました。 迫害が始まってからの数年間、私はよく心性交流の記事や真相の記事を書き、それはいつも掲載され、真相の週刊誌にもよく載ってました。 書いているときに、大変だと思ったことはなく、一日に何篇も書けることもありました。 その後、私は邪悪に迫害され、数年間自由を失いましたが、再び家に戻ったとき、修煉状態が以前と異なったため、一言も書くことができませんでした。 常人宛ての勧告の手紙を書かなければならない人手不足な時でも、私は身内や同修に手伝ってもらいました。単独で何かを書く時、やはり自分の修煉状態が不十分だと感じたのでした。 自分の状態が良くないから、師父が神通筆を回収して、他の同修に使わせているのかもしれません。
自分の能力は神様から授かったもので、前世の徳や業、現世の願いが関係しているのだと理解しています。 「神がその能力を与えれば、それはあなたのものになり、神が与えなければ、あなたは何でもないのである。 また、たとえ神から与えられた能力で何かを行ったとしても、そのことの価値を見出すためには、神から力を与えられ、神から内包を授かっていなければならない。 ひとたび天の功徳に貪るになれば、過去にうまくいったこととまったく同じことをしても、この世にいるすべての衆生に認められることはない。」と私は知りました。この教訓は、私自身が法を実証するプロジェクトだけでなく、一般の常人の仕事においても学びました。
私はようやく、「能力」は人間の善悪やレベル、心性を反映するものではないことを理解しました。 そう考えると、能力のない者でも、自分の本分を守り、善意を持って人に接することができれば、神に認められた善い生命なのです。
この考え方を正すために、日常生活の小さなことから始めることを自分の念頭におくようにしました。 まず、自分の生徒たちと接するとき、私は心の中で、できる生徒とそうでない生徒、あるいは努力する生徒とそうでない生徒を区別してはいけないと自分に言い聞かせます。 努力しない子も理解しなければならない。やる気は誰にでもありますが、自制心や集中力などは生まれつきの能力でもあるし、不可抗力に属します。子供にある望ましくない状態は親の職業や教養が関係しています。 このような欠点があるからといって、彼らを見下すことはできません、できることなら励ましてあげたい、うまくいかなくても叱ることはいけない。 たとえ心の中であっても、軽蔑してはなりません。どの子に対しても等しく敬意を払い、すべての生命に畏敬の念を抱くべきです。
しばらくすると、自分は能力のある生徒とそうでない生徒を差別しなくなっただけでなく、以前は大きな悩みの種だった生徒と私自身の関係も改善されていることに気づきました。