文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年10月24日】最近、自身の修煉における人間の観念による妨害をますますはっきりと感じるようになりました。人間の観念を取り除いて初めて、人間から抜け出して神に向かっていくことができるのです。
昨日の学法で、次の一節を学びました。「顕微鏡で人体を見るとこのようになり、目で見るのとはまったく違ってきます。それは人間の目がこういうものが見えないように、虚像を造るからです」[1]。そこで、私はこう考えました。「人間が目で見ているすべては虚像であれば、今私が手にしているこの『轉法輪』、常人の空間で見れば紙に活字がある本であるという現れも、その本当の姿ではないということなの? では、その真の姿は何だろうか?」そう考えた瞬間、私は、一層の物質的な観念が、私から取り除かれたと感じました。その直後、『轉法輪』は本としてではなく、幾重にも重なった無数の佛道神としての現れとなり、さらに見ていくとすべてが師父の法身に見え、さらにさらに見ていくと、それが何層にもわたって重なっていく真・善・忍に見えました。
その瞬間、私は自分が空っぽになったと感じ、少しの雑念もなく、僅かでも雑念を抱くことが法に対する大きな不敬だと感じました。また、学法の際は無為で何も求めない気持ちで、師父に対する無類の敬虔さと尊敬の念を持って学ぶべきだと分かりました。言葉の表面的な意味が分かれば十分であり、「内包が見たい」という考えは持ってはいけません。なぜなら、それは求めているからです。法の内包は、あなたが法を読んでいる時点での心理状態および心性の次元に基づき、法の背後にいる佛道神が開示して下さるものです。
学法を終えて、私は自分が「目で見たものこそ真実」という観念を、気付かずにずっと抱いてきたことに気がつきました。師父はこのようにおっしゃっています。「この両目を通して、世界のあらゆる物質、あらゆる物体が見えると思う人がいます。そのため、彼らは目で見たものこそ真実で、見えないものは信じられないと固く思い込んでいます。昔はずっとこのような人は悟性が悪いと見なされていましたが、なぜ悪いか多くの人ははっきり説明できません」[1]
以前この部分の法を学んでいたとき、他の空間や神佛の存在を信じる自分は、こんな悟性の悪い人間ではないと思っていました。今になってやっと気づきましたが、自分こそがこのような悟性の悪い人間なのです。この観念があることで、自分の修煉、法への同化、および大法を実証することが妨げられているのです。多くの場合、私はこの観念に振り回されて、肉眼で見たり認識したりした人間の理、および人間の空間にある虚像に基づいて修煉の問題を考えたり対処したりしています。
私は、大法弟子が大法を実証することを妨げている主な表面的な人心の一つが、恐れの心だと理解しています。恐れの心には多くの種類がありますが、もっとも重要なのは、迫害されることへの恐れだと思います。誰が大法弟子を迫害しているのでしょうか? 警察や世人ではなく、その背後にある邪悪なのです。大法弟子は別の空間にいる邪悪を恐れるのでしょうか? もちろん、恐れていません! 邪悪が病業を用いて迫害を行うとき、ほとんどの同修は恐れておらず、強い正念を持って邪悪を取り除き、その過程での多くの苦しみに耐え抜いています。しかし、邪悪が別の形、つまり警察を操って迫害しにくるという形で現れると、一部の同修は怖くなって身を隠してしまいます。では、別の空間にいる邪悪を恐れない私たちは、一体誰を恐れているのでしょうか? 常人の警察です。なぜ警察を怖がるのでしょうか? 迫害が起きる前、私たちは警察を恐れていなかったのに、なぜ迫害が起こってから警察を恐れるようになったのでしょうか? それは、迫害が起きてから、「警察が大法弟子を迫害している」という目に見える現実によって、私たちに、新しい観念が形成されたからです。逃げる行動はこの観念による反応で、私たちの本当の考えによるものではありません。師父が『轉法輪』で言及された植物を踏みつけた学生の例にあったように、本当に恐れているのは植物自身ではなく、踏みつけられる行為への恐れの観念が植物に形成され、その観念による反応なのです。真に大法弟子を迫害しているのは警察ではなく、その背後にある邪悪であり、警察は、救いを待っている生命なのです。背後に邪悪がなければ、どの警察が大法弟子を迫害する勇気があるのでしょうか? 背後の邪悪がなければ、警察は自身の分かっている一面に動かされて、真相を聞こうと自ら大法弟子を探すでしょう。
法を実証するために二度目に北京に行ったとき、私は天安門広場支局に連行されました。警官らは、「今日は広場に来る法輪功学習者がいなくて、ちょうど暇なときにあなたが来た」と言いました。両手に手錠をかけられ長い椅子に固定されている私に、警官らは「何も言わないなら、刑具を使わざるを得ない!」と脅しながら私を蹴りました。私はそれが警官の背後にある邪悪が言っている言葉だと知っているので、道理にかなった厳正な言葉でこう言い返しました。「国家の警察官として、このようなことをするのは法律に違反しています。それと正直に言っておきますが、来た以上、生きて帰る気はありません!」。これを聞いた警官はすぐに愛想笑いを浮かべながら「そう言わないで下さい」と言い、立ち去りました。私は彼の背後にある邪悪が解体されたと分かりました。
多くの場合、私たちは「目で見たものこそ真実」という観念に騙されて現実世界のいわゆる現れだけに着眼し、人間の理に縛られて抜け出せません。冗談ですが、もし別空間の邪悪が警官をカモのようにあなたのそばに追いやったり、人形のように操ってあなたを迫害させる様子があなたに見えたら、それでも警官を怖がりますか? 絶対にありえないでしょう。
私たちは皆、修煉とは常人の名、利、情を放下することだと知っています。しかし、一部の修煉者はどうしても名、利、情を手放せません。なぜでしょうか? 私が思うには、まさに「目で見たものこそ真実」という観念に振り回されて、現実世界の名、利、情をあまりにもリアルに見てしまい、その真実が見えていないからです。師父はこのようにおっしゃっています。「なぜなら現実の利益の真っただ中で、心を捨てることは至難だからです。利益がすぐここにある時、心をどうして捨てられるでしょうか? 難しいのは、実際その点にほかなりません」[1]
2000年に北京に陳情に行こうとしたとき、母に反対されました。ある日、彼女は突然かんかんに怒りだして、すべての植木鉢を床に叩きつけてから床に寝転び、さらにナイフで私を脅し「あなたが北京に行くなら、私は生きていけない、生きられない!」と言いました。妹と説得を試みましたが、まったく聞く耳を持ってくれませんでした。目に涙を浮かべながら彼女の部屋から出てきた私は自分の部屋に戻り、『轉法輪』を開いたとき、「元神を生んでくれた母親こそあなたの本当の母親です」[1]という一節が目に入りました。感激とともに、私は心の中で「師父! 分かりました」と言い、本を手にして会社に行き、そこで読みました。夕方家に戻ってくると、何事もなかったかのようでした。恥ずかしくて呼びに来れない母は、妹に、「夕飯要りますか?」と聞きに来させました。
思えば、同修の中には、「息子への情が捨てられない」、「孫への情が捨てられない」と言っている人がいますが、実際、その時のあなたの基点はすでに人間のところに置かれているのです。人間はどうやって手放すことができるでしょう? それがそもそも、人間が持つべきものなのです。手放すとき、とても苦しくて辛い気持ちになりますが、実際はゆっくりとそれらのものを削り落としているのです。大法の修煉はそうではありません。我々は「人心を直に指し法に照らして修め」[2]、「目で見たものこそ真実」という観念を取り除けば真実が見えて、なぜ修煉するには情を取り除く必要があるのかを法理による理解を得ることができます。
人間から抜け出すためには、この後天的に形成された観念を崩さなければなりません。この「目で見たものこそ真実」という根本的な観念を崩さない限り、また新たな後天的な観念が形成されてしまいます。後天的に形成された「目で見たものこそ真実」という観念を崩して初めて、新たな後天的な観念が形成されなくなるのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「修煉の形式」
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと 切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです。】