同修といる時も善を修めるべき
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2021年10月25日】私たちの学法グループに、90歳近い年配の同修がいます。その同修はとても精進しており、学法や真相活動、発正念三つのこともよくできています。しかし、学法の時に文字を読み違えたり、文字を加えたり抜かすことがあります。毎回私がそれを指摘しますが、善意からではなく、責める気持ちで言っていました。その同修は当然受け入れられず、不機嫌な表情をします。彼女の態度を見た私は、心の中でさらに怒ってしまい、だんだんと二人の間に溝が生じてしまいました。

 再び彼女が読み違えると、私は文句を言い、それも益々甲高い大きな声で言うので、年老いた彼女を驚かせていました。その時の私は完全に修煉者のあるべき姿ではなく、善と慈悲が持てず、無意識に偉そうな態度をとっていました。「あなたの態度は正しくありません。修煉者の善を持っていないですね。善意を持って指摘し、彼女に教えてあげた方がいいと思いますよ」と指摘してくれた同修がいました。それを聞いた私は心の中で「法を読み間違えたのに、丁寧に教えるなんて」と不満を持っていました。そして、目の前に現われたトラブルを「心性を高める」チャンスと認識できませんでした。自我を放下して静かに許すこともできず、常に自分の正しさを強調していました。

 同修が指摘してくれたため、家に帰って真剣に学法しました。師父は「もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり─強大なる佛法のこの世での再現なのです!」[1]と説かれました。真・善・忍の基準に照らして、自分がどこをうまく修めていないのかを探したところ、やっと自分の問題に気づき、「善」の力を認識しました。真の「善」は自分を変えるだけではなく、人をも変えることができます。私達は「善」を修めると同時に、「真」と「忍」も修めなければなりません。「善」の中に「真」と「忍」も含まれています。

 師父は「真・善・忍という特性は、宇宙の中の善悪を判断する基準です。善し悪しはそれによって量られます」[2]と説かれました。法に照らしてみると自分の不足が見つかりました。自分を法に同化させていないのは、つまり「真・善・忍」を修めておらず、それは安逸心や顕示心、闘争心、嫉妬心、恐怖心、頼る心、人に言われてほしくない心など様々な人心を修めていないのと同じなのです。このように探してみると、まさに同修の状態は自分を写している鏡ではないかと驚きました。自分も読み間違えた時がありますが、直してくれた同修は慈悲で優しく、私の態度と全く逆でした。

 これらの執着心が見つかった後、私は積極的に年配の同修と交流して、自分が善で対処していないことを彼女に謝りました。彼女は私を許し理解してくれました。私自身の不足を認識し直すと、いつの間にかその同修は法を読むのがスムーズになり、読み間違いもほとんど無くなりました。

 今回の経験を通して、修煉者は常に内に向けて探し、自分自身を修める謙虚な態度を持つべきだと分かりました。心を込めて学法することこそ、法に同化させ、法理を理解し、法の玄妙さや奥深さとエネルギーを感じ取ることが出来るのです。

 修煉において師父への正しい信念が益々重要で、この信念を貫き通すことが、私達の圓満成就の根本的な保証なのだと認識しました。それに、同修や衆生に対して、誠実で優しく、忍と譲る心、寛容な心を持つのであれば、何ものをも溶かすことができます。着実に自分自身を修めることこそ、修煉者の基本的な基盤となるのです。

 修煉して間もなく20年も経ちますが、今になってやっと修煉とは何かが分かるようになりました。修煉は自分自身を修めるもので、人を修めるものではありません。私は少しずつでも、しっかりと法を学び、内に向けて探し、三つのことをし、大法弟子の使命を果たしていきたいと思います。

 個人の修煉体験で、足りないところがあれば慈悲なるご指摘をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/23/431806.html)
 
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