自信の喪失は、師父と大法への信念の喪失の現れ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年1月2日】ここ数年、私の体にある種の病気の症状が現れています。ずっと根絶できておらず、時間が経つにつれて、発正念の効果もあまり感じられなくなりました。周りの同修たち、特に家族は心配しました。私自身も自信を失い、仕方なく病気の苦しみに耐えていました。しかし先日、娘と多くの交流をしたところ、娘の「自信の喪失は、師父と大法への信念を喪失したことの現れだ」という一言に私は驚き、いろいろと考え直しました。

 私はこれまで、師父と大法への信念を動じさせたことなど絶対にない、とんでもないことだと思っていました。自分は間違いなく師父と大法をずっと信じていると思い込んでいたのです。

 しかし娘の一言を聞いて、「魔難の中で、自分の心に師父はいるのか、敬虔に師父に助けてくださいと願ったことはあるのか。自分の修煉が良くできていないと恥ずかしく思い、師父に助けを願う顔などないという考え方は法理に適うのか……」と自問し、冷や汗をかきました。

 私は師父と大法を固く信じていたように見えましたが、本当の堅い決意と信念に比べれば、まだ程遠いものでした。例えば、恐れる心があって外に出て真相を伝えていないこと、子供や孫への情が強くて「三つのこと」に専念できないこと、安逸心があるために幸せな生活を追求することなどが挙げられます。大法弟子の責任と使命を疎かにして、煉功でさえ毎日欠かさずにやっているわけではありません。精進が足りないのに、正真正銘の大法弟子と言えますか。

 「大ニューヨーク地区法会での説法」で、ある修煉者が師父にこう質問しています。「古くからの学習者の大法に対する最も深い体得は法に対する堅い決意と師父に対する信念です。堅い決意と深い信念はどういうことから由来しているのでしょうか? この問題は主人を長く悩ませています。どのように修めたら、大法に対するこの上ない堅い決意が出来上がるのでしょうか?」[1]、師父は「信じることと信じないことは人間の理念であり、私はあなたに何かを与えたからではなく、何かの手法で何かの状態に達するということでもありません。大法弟子は皆大法に対して堅い信念を持っています。大法弟子にとってこれは一つの形容ですが、彼らの大法に対する固い信念は理性から認識したことによって堅く信じるようになったのであって、何かの要素が人間に作用してそうなったのではありません。人間の最も表面に三魂七魄があり、七魄の中の一つに信じるというのがあります。人間は他の人が何かを話す時にそれを聞いて信じるようにするという作用が働くことができます。しかし、このように信じるということは修煉に対する正しい信念と比べることができません。それは人間の最も最も表面のもので、一種の霊的な作用を果たすことができます。それに対し、大法弟子の正しい信念は神の状態であり、真理に対する理解と悟りによってもたらされたのであって、修煉して出来上がった一面の神の状態であり、決して何らかの外的な要素が作用できるようなものではありません。堅い信念のために堅く信じるのではなく、堅い決意のために堅い決意を持つことはできません」[1]と答えられました。

 まして自分は現在、身体に少々の魔難を受けているといって、時間が長くなるにつれて自信を失い、仕方がないと思ってしまい、精進しているとは言えない様々な考え方や行動と相まって、師父の慈悲に対して本当に申し訳がたちません。

 新経文『目覚めよ』を読んで、今の自分の修煉状況と照らし合わせてみると、とてもショックを受けました。私こそ、速く目を覚ますべきだと思います。20年余り修煉を続けてきた古い学習者として、今の自分の状態は、神の在るべき状態といえるでしょうか。

 今日から過去の不足を補い、しっかり学法して、しっかり自分を修めて、精進といえないすべての考え方と行動を正し、大法に固い信念を持った大法弟子になるように頑張りたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/13/434688.html)
 
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