病業の魔難の中、同修に頼ってはいけない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年12月24日】2017年春のある日、私は突然、右側の乳房にしこりができ、乳首がくぼんでいるのを見つけました。出勤したとき少し不安を感じたので、早めに帰りました。途中で、病院に行って検査すべきかと思いながら、同修のAさんの家に行きました。Aさんは「以前、私も同じような状況に遭ったことがありましたが、何も考えず、するべきことをしているうちに、自然に治りました。あまり重く受け止めなくていいです」と言ってくれました。Aさんの話を聞いて、私も恐れなくなりました。

 Aさんの正念の影響を受け、「Aさんは大丈夫だったので、私も大丈夫でしょう」と思っていて、怖くないと感じただけでした。修煉において、私は長年にわたって、法を学ぶのではなく人をまねて、同修に頼る傾向がありました。困難に直面したとき、最初に師父の教えと大法の法理を考えるのではなく、潜在意識の中では、同修に相談して助けを求める気持ちばかりでした。これは修煉の根本的な問題で、つまり、100パーセント師父を信じ、大法を信じていないということです。それによって魔難が長引いてしまいました。

 当時、体の状態を考える暇もないほど忙しく、痛みもかゆみもなかったので、修煉には妨害がないと思っていました。そのため、身体に生じた問題に対して、内に向けて探したり、発正念をしたりしませんでした。心配していないように見えますが、なんとなく気が重く、気楽にいられませんでした。時々不安になった時には、同修が「真剣に受け止めなくていい」と言ったことを思い、少し安心しましたが、本当に心性を向上したわけではありませんでした。

 2018年の秋頃から、右側の乳房が痛くなり始め、紫のこぶが大きくなり、しばしば痛みで眠れなくなりました。私は午前中だけ仕事をして、午後から同修のBさんを訪ねて、一緒に学法と発正念をするように頼みました。その後、病業中の同修が自宅の空間場が良くないため、他の同修の家に行って住んだと書かれた同修の交流文章を読み、自分もBさんの家に住み込み、一緒に学法と煉功、発正念をすることにしました。

 同修が力を惜しまずに助けてくれたにもかかわらず、私の身体はどんどん悪化する一方でした。2018年の末頃から、私の乳房は破れて出血し始めました。病業の状態がひどくなるにつれ、今までと違って、自力で乗り越えられるか、不安も深くなり、誰かに助けを求めたい気持ちがありました。毎日学法もしていますが、実のところ、大法を第一にするのではなく、同修がどう言ったかを考え、同修を頼りにしたい気持が強かったのです。結局、頼れば頼るほど身体の状態は悪くなりました。

 年末ごろ、私は同修のCさんを訪れました。私を見てCさんも驚き、非常に危険な状態であると感じ、私と一緒に学法してくれました。初めごろ、一緒に発正念をする時、非常に強いエネルギーを感じました。しかし、しばらくしてから、Cさんの子供たちが冬休みに入り、年末の家事も忙しくなったため、私と毎日一緒に学法と発正念をすることができなくなりました。一人になると、私はネガティブになりました。年明けてから、Cさんは再び私のために一緒に学法と発正念をするようになり、8カ月以上も全力で支えてくれました。多大な負担でCさんも疲れ果てましたが、私の身体は日に日に弱くなりました。

 2019年の春になると、私は非常に衰弱して、顔色が青白くなり、ひどい咳で横になることもできず、一晩中座るしかなく、歩くことも難しくなりました。

 ある日、Cさんの家で学法をしている時、天目が見える同修のDさんが来ました。Dさんは私を見て「病院に行ってください」と言いました。Dさんの話を聞いて、私は動揺し始めました。数日後、家族の説得で私は病院に行きました。

 検査のため入院することになりました。その数日の間、私は絶え間なく内に向けて探したり、発正念をしました。しかし頭が重くて、他空間による圧力が感じられ、私の身体を迫害する邪悪を取り除く自信はありませんでした。私は師父に助けをお願いするとともに、AさんとBさんに助けを求めました。2人はそれぞれの困難を克服し、わざわざ病院にやって来て、発正念をしてくれました。このような状態でも同修に頼るばかりの私は、実際、十分に師父を信じ、大法を信じていなかったのでした。

 入院して化学治療を受ける間、ある同修夫婦は私の大きな助けになりました。彼らは法理に対する認識が比較的に明白で、強い正念を持っていました。私が病院から家に帰る度に、同修夫婦は来てくれて一緒に学法と発正念をするとともに、法理に基づいて交流し、同修の間や他空間による妨害をはっきりさせました。師父の加持と同修の助けのおかげで、私の身体の状態は大きく改善しました。しかし、私はまたこの同修夫婦に頼るようになり、結局、発正念をした後、2人は度々疲れ果てました。

 私はなぜこれほど依存心が強いのでしょうか? 小さい頃から、私はネガティブな性格で、意気地がなく、すべてにおいて、自分の短所を他人の長所と比較し、コンプレックスのため自分の見解を持っていませんでした。修煉してから、ある程度良くなりましたが、根本的な変化はなく恐怖心と劣等感を取り除くことができませんでした。生活の中で、少しの困ったことでも他人に聞くことによって安心することが出来ました。修煉で直面した難も同修に打ち明け、その過程でプレッシャーを解消していました。これは修煉ではなく、完全に常人の方法に過ぎません。

 修煉の角度から見ると、私は大法を神聖な立場に置くのではなく、自分と大法の関係を正しくすることができず、100パーセント師父と大法を信じることもできていませんでした。

 それは様々な面から現れています。例えば、近くの同修が迫害されると、自分も迫害されるのではないかと心配して怖くなりました。これは見えない形で邪悪にエネルギーを送ることに等しく、つまり迫害を求めることになります。師父は迫害を認められません。心の中に法があれば、大法弟子として、自分も迫害を認めず、それを恐れてはいけません。また、私は同修の話や認識、特に私に役に立つ言葉に対してはっきり覚えており、何か問題に直面した時には、大法で考えるのではなく、同修たちの話を思い出して近道を取ろうとしていました。

 実に本末を転倒することになります。本当に私を変え、向上させるのは大法であり、他人の経験やテクニックではありません。これは、目で見えるものこそ本物であるという観念及び近道を取ろうという人心が自分自身を妨げているのです。

 数カ月前に大学入試の夢を見ましたが、もともと一つだけ空欄の問題を埋めることができず、隣の人の答えを見ようとしたら、すでに正解した問題も全部間違っていました。それでも他人の答えを見たがり、回答用紙の右部分を紛失してしまいました。急いで試験官にもう1枚頼みましたが、早く持って来ないことを怨んでいました。終了する時間が近づいたので、とても焦りました。結局ベルが鳴り、自然に任せるしかないと思い、諦めせざるを得ませんでした。

 夢の中のシーンは、現実の私の状況とまったく同じでした。修煉の中で難関に直面するとき、私は最初に師父の教えを思い、大法の基準で行うのではなく、常に外力を借り、同修の助けを求め、頼りにしたいのです。この同修が出来ないと思えば、ほかの同修に依頼しました。その結果、魔難を乗り越えないだけでなく、同修たちをも疲れさせました。また、私は間違った道を歩んだこともありました。現在、私の身体はますます良くなっていますが、やはり正々堂々と大法に従って高まってきたわけではありません。

 私のこれらの教訓が、まだ病業に苦しんでいる同修たちを目覚めさせる役割を果たせれば幸いです。同修に頼らないでください。依存すればするほど難関が大きくなります。師を信じ、法を信じてこそ、難関を乗り越えることが出来、魔難から抜け出すことができるのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/19/434442.html)
 
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