文/ニュージャージー州の大法弟子
【明慧日本2022年1月2日】(前文に続く)
4、延ばされた生命は、衆生済度のために使うべき
もし師父によって寿命を延長されても精進しておらず、常人のように生活を享受し、時間を衆生を救うことに使わなければ、生命の危険があると思います。周囲の何人かの同修は長い間体の病気を経験し、その後病院に行って手術を受け、常人の方法で命を拾いました。しかしその後も修煉を緩めて、常人の生活に溺れました。命はまた何年か延びたものの、最後に病気が重くなってとうとう命を失いました。
「延ばされた生命は百パーセント修煉に用いなければなりません。常人の中で生きていくためではありません。彼は自分の生命が延ばされたことを知らず、しっかり制御できず、煉功者に対する要求に百パーセント従って行動することができなければ、彼はいつでもこの世を去る危険に直面しているのです。これが年配の人が直面している問題です」[5]
5、根本的な執着を除去したか、自分は正真正銘の大法弟子なのか
自分の根本的な執着は何であるか、今、それを除去したのか、自分は正真正銘の大法弟子と言えるのかを、どの修煉者も時々自分に問い詰めてみたほうが良いと思います。
15年前、夫が大法を得て、すぐ修煉に励みました。私たちの夫婦仲はとても良いもので、私はいつも夫を頼りにしています。夫は仕事以外の余暇をほとんど学法、煉功、大法の仕事などに費やして、私に付き添う時間はなくなりました。その頃、私はアメリカに来たばかりで、まだ環境に慣れていない上に、家庭生活にこんな大きな変化が発生して、とても悩んでいました。何回も夫と言い争ったあげく、夫の断固とした修煉の決心を見て、私は素直になって、夫と一緒にいる時間が欲しいならこれから彼と一緒に修煉するしかない、と考えました。
こうして、私は濃い「情」を持って修煉に入りました。修煉するにつれて、自分の根本の執着はこの「情」であると分かっていても、取り除くことができませんでした。私は夫婦の情を何より大切にして、私たちの間の同修としての関係より重く見ています。夫婦仲が良いのは良いことだと思って、その中に溺れて楽しんでいました。とても精進しているようにみえますが、心の中で夫婦の情を放下したくありません。師父は周囲の同修の口を借りて何度も私を注意されたのですが、あまりにも執着していたため、同修たちの話を重視しませんでした。夫がこの世を去るまで、私は「夫婦の情」という根本的執着をずっと捨てていませんでした。
夫の死は、私に大きな衝撃を与えたと同時に、私に修煉の厳粛さを改めて考えさせ、自分の根本的執着を掘り起こさせました。修煉に入った動機の「夫ともっと一緒にいたい」という不純な執念の人心が修煉を続ける原動力になっていませんか。今、夫が他界して、私はまだ修煉を続けますか。「夫と一緒にいたい」目的が喪失した今、私はまだ修煉したいのですか。情、たとえ常人社会で良いと思われている情でも、修煉を妨げる障害になると痛感しました。しかしその悟りは、夫の命を代価に私はやっと悟ったもので、悟性が低く、代価が高すぎるのです。
悟ったからといって、いつでも心性を守られるとは限らず、その後、何度も試練がありました。夫が亡くなって間もない頃、私はショッピングモールで神韻チケットの販売を手伝って、目の前に通り過ぎたカップルを見るたびに、夫と一緒に過ごした光景が頭に浮かんで、心の中に夫婦円満な生活に対する未練が湧いてきます。そういった考えが出てくるたびに、それを否定して排斥しています。そのように何回も似たようなことがあり、次第にそういう試練は少なくなって、最後に、どんなに仲良さそうなカップルが前を通っても、もう私の心を動かすことはなく、それらの誘惑は目の前で吹き去った軽快な風のように、私の心に波紋を起こすことはありませんでした。情という根本的な執着を取り除いたと分かっています。
6、しっかり発正念をする
修煉者は皆、発正念の重要性を知っています。これまで、私の発正念には多くの問題がありました。数週間前、同修のAさんが突然亡くなりました。Aさんは以前、発正念をする時に手がよく倒れて寝てしまったことを知ってから、私は問題の深刻さが分かりました。これから発正念を重視し、正念をはっきりさせてぼんやりしないように、手が倒れたり居眠りをしたりすることのないように、と心で決めました。
そして、発正念の時になるべくきちんとした体勢を保って、頭の中に入ったあらゆる雑念を排除するようにしました。そのように2週間も経たずうちに、効果がはっきり出ました。自分の空間場がきれいに片付けられて、外からの妨害も機能しなくなったと感じています。本当の自分が正念を発している、本当の自分が自分自身を支配していると感じています。
発正念の問題を解決したことでに、予想もしていないことに、他の方面の変化と向上もそれに伴って起こりました。静功をする時、雑念が少なくなり、居眠りもしなくなって、姿勢も正しくなりました。動功をする時、体は天地の間でとても高くなったと感じました。学法をする時も以前より集中力が上がって、居眠りもしなくな、楽器の演奏も上手になりました。家事や日常のことを処理する時も要領が良くなって、とても効率が上がりました。これらの突破はすべて発正念を重視し自分の空間場を片付けてからできたことです。身を以て「ですから、心性を強調し、全体の向上、昇華を強調するのです。 心性が向上すれば、他のものも同時に向上しますが」[1]を実感しました。修煉の中の体験はこんなに素晴らしいものでした。
この体験を通じて、発正念して自分の空間場の邪悪を取り除くことの重要さが分かりました。もし長期にわたって発正念を重視しなければ、知らないうちに邪悪を増強させることになってしまって、その邪悪はまた自分の修煉を邪魔し破壊することを働きます。
7、結語
修煉には業力の消去、魔難、苦労、関を乗り越えることなどが伴っていて、一回一回の試練に合格すれば、そのたびに体験したことは次元の向上につながります。普段直していない小さな「抜け」と「漏れ」でも、大きな妨害を招くかもしれません。修煉は進んで大法に同化することであり、受身的に妨害されて、旧勢力に修煉の決心を試されるものではありません。修煉は生死を放下しなければなりませんが、「死」を放下できず、体に正しくない状態が現れたら、すぐ常人の病気だと思って死を恐れる修煉者もいれば、「死」を放下できるが生きることを苦しく思い、体の病気状態を耐えたくなくて、この難しい関を乗り越えることを諦めて死ぬ修煉者もいます。
普通の常人でも一旗揚げようとするならば、臥薪嘗胆し、一生の労力をかけなければならないのですが、まして大法弟子の圓満成就はかつてのない偉大な工程なので、いい加減で合格できるものではありません。私を含めて、すべての同修よ、自分がぶつかったあらゆることの中で着実に修めて、師父が按排してくださった修煉の道を正しく歩んでいきましょう。
(完)
注:
[5] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】