文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年1月16日】怨恨心が生まれた背景には、幼い頃から成長していく過程で、蔑視されたり、差別されたり、いじめられたり、利益を奪われたり、無視されたりして傷つけられたことがあります。特に小学校から高校までの間、同級生からのいじめや社会、権力者、金持ちの人からの抑圧を受け、恨みの心が蓄積されたのです。
怨恨心と怒りは密接につながっていて、恨みのために怒り、怒ってまた恨みを深めます。怨恨心は耳ざわりな話を聞いたり、見たくないことを見ると恨みを抱いて、恨めば恨むほど、他人がわざとそうしたと感じてしまいます。また相手を疑えば疑うほど恨みを持ち、人を傷つける話をして反撃して、人を傷つけることができれば、何でも言います。怨恨心はまた他人の災難を見て喜び、他人の不幸を願います。ですから、怨恨心は魔性であり、人を魔に変化させることができます。
恨みが大きいときは、家族にも敵意を抱きます。彼らの言うことは自分が聞きたくないことなので、家族はわざと言っているのだと思っています。家族のしたことが自分の気持ちに合わないととても腹が立ちます。怨恨心のコントロールの下で、言ったこと、やったことは家族を傷つけても気にならず、まだ気が抜けません。家族が反論する時、自分はもっと恨みを抱きます。自分のことばかり考えて他人の気持ちを考えない行為は魔性の現れであり、魔性が大きければ大きいほど、どうやって修煉できるのでしょうか?
大騒ぎしてかんしゃくを起こしたとき、実は恨みの心が自分をコントロールしていて、あらゆる恨みに駆り立てられ哀れみがなく、更に善とは言えません。怨恨心が大きいときは、魔性の大暴露で、気性が荒く、怒って、ヒステリックになり、理性もなくなり正常な人の規範さえなくて、更に少しも修煉者の姿もありません。
師父は「修煉者が修めて魔性を取り除かなければ─功は大きく乱れて得ることができず、または魔道に入るのです」[1]と説かれました。
ですから、怨恨心は非常に危険であり、修煉者にとっての向上に大きな妨害となるので、必ずそれを取り除き、悪い気性、怒り、他人の災難、他人の不幸を見て喜ぶ、疑心などの魔性も必ず修めなければなりません。
現段階での少しの認識で、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1]李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性と魔性」
編集者:「本文は作者の現在の認識で、同修と切磋琢磨し、比して学び、比して修めるためのものです」