「何も言わず」と「にこにこしている」
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年2月9日】今日の学法で、私は次の法を読みました。「常人の中で人に罵られても、黙って平然としています。殴られても何も言わず、一笑(いっしょう)に付するだけで済ませてしまいます。そうなれば、その人の心性はもうかなり高くなったと言えます」[1] 。私は自分に問いかけました。「罵られた時、あなたは何も言わずに済ますことができましたか?」 答えは「できていません」。さらに問いかけました。「殴られた時、何も言わず、一笑に付することができましたか?」 答えは「できていません」

 私は、大法を修煉してすでに23年になりました。しかし、師父が示されたこの最も基本的な要求を満たしておらず、本当に恥ずかしく思います。師父は最初に法を伝えられた時から、煉功者に「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[2] ことを要求されました。自分がしっかり修煉できていないことを心から悔やんでいます。千古の機縁に高徳な大法を得たものの、しっかり修煉しなければ、どうして慈悲で偉大な師父のご期待に背かないことができるのでしょうか?

 自分自身を振り返ってみると、それができなかった原因は、真・善・忍の法理について深く認識することができず、「善」と「忍」をよく修めていないからです。つまり、大きな慈悲の心がないため、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」ことができません。当然、「三つのこと」もしっかり行うことができず、修煉者の基準にも達していません。

 罵声を浴びた時、「何も言わず」にいられないし、「にこにこしている」ことはなおさらできません。師父は説法の中で「いじめられても蹴られても薄のろはただ笑い、どうせ徳をいただくのですから、押し返したりはしません。むしろ、どんどん来いと笑っているのです!」 [1]、「徳を投げかけられても全然押し返したりしないで、全部いただいてしまい、にっこり笑いながら取り入れるのです」[1] と語られました。

 また、師父は「羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常に、にこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」[1] と語られました。

 私は20年以上も修煉してきたにもかかわらず、まだこのような状態に到達できないことを、本当に反省しなければなりません!

 私は、羅漢の果位に達し、どんなに損をしても平気で、にこにこでいられる例を思いました。どうして彼は気にせず、気楽にいられるのでしょうか? それは、彼が自分の得たのは徳であり、それこそ最高のものであるとはっきり分かっているからです。ですから、良くないことは、修煉者にとって逆に良いことになります。業を消し、関を乗り越え、内に向けて探すことで心性を高め、それによって向上するのです。修煉者にとって、これこそ大切なものではありませんか? 修煉者として、人間の念を正念(神の念)に変えることこそ、修煉して向上することです。

 殴られても、罵られても、「何も言わず」、そして「にこにこしている」。これは師父の私たち煉功者に対する基本的な要求です。これが出来ることこそ、修煉だと言えます。もし、まだ出来なければ、しっかり学法をしなければなりません。大法の法理で自分を厳しく律し、すべての考えと思いを大法によってはかり、様々な欲望と執着心を取り除き、外部からの妨害に左右されず、自分の主意識で自分をコントロールしなければなりません。これらができれば、よく修めたことになり、大法の中で圓満することができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/2/7/438631.html)
 
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