文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年3月1日】私は法輪大法を修煉したという理由で迫害され、不当に刑務所に入れられました。刑務所から解放された後、仕事を失った私は知人の紹介で、スーパーの店員として10カ月ぐらい働きました。その過程で、体の疲れや、辛い思いもありましたが、大法の中で修煉して向上出来た喜びの方が大きかったのです。以下は、その時の私の修煉体験をお話ししようと思います。
一、真を修める
師父は「常人の中で修煉する人は、どれだけ大金持ちになっても、どれだけ地位の高い官職に就いても、個人経営で会社を興してどんな商売をするにしても、心を正しく保ち、公平かつ良心的に取引しさえすれば、何ら問題はありません。人類社会においてさまざまな職業があるのは当り前ですから、人間の心が歪むことこそが問題で、どの職業に就くかが問題なのではありません」[1] と語られました。
私は自分を修煉者と見なし、仕事の中で、顧客を欺くことなく、正直に人と接しました。今日の社会では、前日に売れ残ったスペアリブや、肉、豆腐など、腐った臭いがなければ、翌日の商品と一緒に並べて売ることが多くあります。顧客から聞かれても、店員は売るためにほとんど「今日の物です」と答えます。 ある時、年配の客が朝に肉を買いに来て、どれが当日の新しいもので、どれが前日の売れ残りなのかと尋ねました。通常これらのことを客に知らせませんが、私は正直に答えました。その客は当日の新鮮な肉を買い、私に親指を立てて「あなたが正直なので、あなたの所で買い物すると安心出来ます」と嬉しそうに言いました。
また、ある時、私はレジで計算する時に、誤って顧客Bのお金を顧客Aさんのカードにスワイプしました。そのため、Aさんは130元(約2千4百円)以上多く支払いましたが、それを知りませんでした。結局、Bさんは130元を支払うことはありませんでした。後で、店長はそれを知り、Bさんに「店が責任を負います」と言いました。店長は私に「このような場合、顧客Aさんは気づいていないため、通常は戻って来ない。来たとしても、知らんふりするか、ダメだったら金を返せばいい」と言いました。しかし、私はいつもAさんに対して気の毒に思い、そのお金を返そうと思いましたが、それは自分で130元以上のお金を出すことになります。その一方、知らないふりをして、Aさんが戻って来ても、証拠がないため、返さなくて済むことができます。「私は大法弟子だ。天国の無数の神々が見ており、私はよく行い、師父に恥をかかせてはいけない」と思い、必ず返すように決めました。しばらくして、Aさんがまた買い物に来ました。私は自分からAさんに理由を説明して謝り、自分のお金で返しました。Aさんはとても感動していました。私も自分の心性が向上出来たことを嬉しく思いました。
二、善を修める
修煉者は慈悲で、善をもって人と接し、人のことを先に考えなければなりません。しかし、競争の激しい業界内には様々なトラブルがあり、善をもって行うことも容易ではありません。私の働くスーパーはチェーン店で、近くのホテルと同じグループによって運営されています。ホテルのスタッフは急ぐ必要が場合、いつも果物や野菜を借りに来ます。スーパーとホテルの間に内部的な対立があるため、店長は「向こうが借りる際には、古くなった割引の野菜や果物と抱き合わせにしなさい」と要求しました。しかし、そうなると、ホテルのスタッフは向こうの上司に叱られることが多く、スーパーとホテル両陣営のトラブルがますます深刻になりました。ある時、向こうの若いスタッフが急いでグレープフルーツを1個借りに来ましたが、どうしても割引の古い野菜を持って行こうとしませんでした。それで、私は彼にそれを貸してあげませんでした。しばらくすると、ホテル側の料理長がやって来て私を叱りました。私はとても悔しく思いました。
家に帰って学法をしました。師父は「常人が正しいと言っているからといって、それに従うわけにはいきません」[1]、「修煉者としては、宇宙の特性を用いて量るべきで、そうしてはじめて真の善悪がなにかを見分けることができます」[1] と語られました。
そこで、私は理解しました。店長が「それは正しい」と言っても、本当に正しいことではありません。私は大法弟子であり、師父のお教えに従わなければなりません。ホテルのスタッフは物を借りるために来ていたのに、私は彼を困らせるべきではありませんでした。善をもって、可能な限り他人を助けるべきだと思いました。それ以降、スタッフが物を借りに来ると、私はいつも「ほかに使う野菜は要りませんか? もしなければ、今度来た時に持っていかれても大丈夫ですよ」と穏やかに薦め、無理に押しつけませんでした。その後、トラブルは徐々に緩和され、相手も笑顔になって行きました。この事から、今まで知らなかった法理を体験することができました。
三、忍を修める
刑務所から解放された当初は体がとても弱く、200メートル歩くだけでも休憩しなければなりませんでした。仕事を紹介された時、「スーパーの仕事環境はきれいで、商品を陳列するだけで、それほど疲れない」 と言われましたが、実際にやってみると、そんなに簡単ではありませんでした。毎朝、20〜30個のバスケットの野菜とかなりの量の果物を運び、それを一つ一つ陳列する必要があります。空いたバスケットを重ねると、人の身長よりも高くなります。1日8~9時間働きますが、座って休む暇はまったくありませんでした。 最初は体力の限界に達し、毎日仕事が終わると、疲れ果てて全身がガタガタになり、それでも足の痛みを我慢してバス停まで歩き、バスに乗って帰宅しなければなりませんでした。夜になると足が硬くなり、痛くなります。そんな時、私は足を組んで学法をします。ある時、左足にウズラの卵ほどの大きさの黒い水疱ができ、歩く度に痛くてたまりませんでした。夜、家に帰った後で、両足を組んで学法をすると、足がちょうど水疱に当たりましたが、まったく痛みを感じず、全身がとても気持ちよく感じました。
それから、私はいつも食事の時間や通勤の時間を利用して『轉法輪』を暗唱することで、新しい法理がどんどん分かり、絶えずに現れた大法の新しい内容を悟ることができました。師父は「身を労するを苦と算せず 心を修するは最も過ぎ難し」[2] と説かれました。本当にその通りでした。
スーパーでは、新入社員はあれこれと仕事を指示されることが多く、先輩がミスをしてもあまり言われず、往々にして、それらを新人に転嫁することがよくあります。私は仕事が終わった後、スーパーで野菜などを買って家に持ち帰ることが良くあります。あるベテランの女性レジ係は、何度も私の支払いを間違い、その度に私のせいにして、私を叱責しました。ある時、彼女はまた興奮して私を叱りました。「買い物をした私は顧客だ。あなたがレジでミスをしたのに、私を責めるなんて、しかも毎回、同じように悪い態度で私を叱る」と、思うと段々と腹が立って来て、不満を相手にぶつけようと思いました。しかし、冷静になって考えてみると、師父は私たちに、トラブルに直面した時には、内に向けて探すようにと教えてくださったこと事を思い出しました。そこで、私は自分が間違っていないかを探し始めました。すると、自分の正しくない観念を見つけることが出来ました。私は自分をお客さんと見なしていましたが、本質的には、私は大法弟子です。大法弟子として、忍を修めなければなりません。他人に叱られ罵られ、とても不快に感じましたが、それは私には「言われたくない」 という良くない物質があるのではないでしょうか? 彼女は私を手伝ってその良くないものを取り除いてくれているのではありませんか? 彼女に感謝しなければなりません! それを悟った私は、とても嬉しく感じました。その後、何回かこのような事にぶつかって、よくできたり、できなかったりして、安定していませんでした。私の修煉がまだしっかりしておらず、力不足でこれからもっと確実に修めなければなりません。
スーパーでは美味しいものがたくさんあるという誘惑があります。経済的には大きな負担がないため、ついつい食べたいものを買ってしまい、同僚たちに「金持ちだ」と言われました。実際、私は金持ちではなく、ただ無駄遣いをしているので、食に対する執着心を修めていないのです。
現在、店にはさまざまな会員特典、リベート景品、割引商品などがあり、店の従業員はいつも最も安くて質の高いものを買うことができます。最初、私も安くてよいものを買いました。師父は私たちに、修煉者は個人の利益において、自然に従うべきで、あなたのものなら失うことはないし、あなたのものでなければ求めないと教えてくださいました。私は自分自身を律し、小手先の利益を欲する執着心を取り除こうとしていますが、まだ完全ではありません。たまに安いものを買った時でも、他の客も欲しがるので、これは自分のものではないと自覚し、他人に譲りました。
私はこのスーパーで10カ月ぐらい働きました。仕事の中での修煉体験を通して、人々は自分の努力でお金を稼ぐわけではなく、神様がその人の心を見てくださるのだと分かりました。現在、人間は道徳的に堕落し、ビジネスをすることと金儲けをすることを同一視していますが、そうではありません。 商売の基本は他人のためであり、私利私欲のためではありません。私たち大法弟子は、さまざまな業界の中で大法を実証しています。私たちは他人のために考え、そして、自分の労働を通じて地域の人々の生活を豊かにし、他人に利益をもたらします。この過程で、真・善・忍に従って修め、自分を向上させ、人々のために返本帰真の道を開くのです。
個人的な体験に過ぎず、次元が限られており、適切でないところがあればご指摘をお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」