商売をするなか、利益の心を取り除く
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 文/台湾の大法弟子 晴儀

 【明慧日本2022年11月28日】私は2003年に大法の修煉をはじめました。修煉してから、各種の執着心があまりにも多いことに気付き、名、利、情といったものが常に私たちに影響していることがだんだんわかってきました。

 まだ学生だった頃、多くの人に「なぜその若さで法輪功を修めるのか」と尋ねられたことを覚えています。当時はまだ心性の試練をあまり経験していなかったので、「心身ともとても幸せです」とか「お金のことを軽く見ることができます」とか、簡単な返事だけをしていました。当時は、この方面でプレッシャーを経験したことがなく、自分はお金を全く重くみていないと思っていました。6年前に、本来やっていた仕事以外に小さな商売を始めました。この非常に単純な決断によって、私の収入源は本来の給与明細から直接現金に変わり、これでやっと自分がお金や物質的な利益を重くみていることに気付きました。

 私は農産物の売買という商売をしていますが、始めた当初、単純な売買とはいえ、心性の試練が常に発生していました。例えば、始めた当初私は、移動販売車を利用して商売をしていました。朝早く市場に着いた時、いつもの場所が他の人に取られていて、自分の商品を売る場所がないとき、特に販売車にいっぱい積んだ商品をその日のうちに売らなければならないとき、或いは商品を緊急に売らないといけない時、私の心の中にはいろいろなマイナスの考えが浮かんできました。内に向けて探して気付きましたが、それは私が正しい道を歩んでいなかったからでした。私がいつも商売をしていた場所は街角の赤いラインのところで、商売には絶好の場所でとても目立ち、商売もとても順調でしたが、そこに出店するのは違法でした。また、この場所を確保するために、朝6時の発正念をせずに家から出ていました。正しくない考えだと知っていましたが、利益を求める心に駆り立てられ、師父の説かれた「事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」[1] ができていませんでした。

 3、4年前からこの場所で商売をしていたのですが、後になって隣の家の主人も「大丈夫ですよ、お金も要らないし、この場所はあなたのものです」と言ってくれました。私もこの場所が自分のものだと思っていましたので、誰かに占拠されると、自分のものをただで持っていかれたような気がしていました。こういう状況は、ある日警察に違法停車の切符を切られるまで続きました。当時、私の販売車には大法の資料が置かれていて、買い物に来たお客さんに配っていたのですが、警察から切符を切られたとき、ふと「この資料を警察に渡してはならない、これは大法に泥を塗っているのではないのか」ということに気付きました。私はこの場所で商売をしていたのは大きな間違いだったと、やっと気付きました。

 心からこの問題を認識してから、私は商売のできる場所を借りました。しかし、試練はやはり続きました。常人の言い方によれば、場所を変えたらまた一からお客さんを増やさなければなりません。しかし学法を通じて、商売の良し悪しにこれだけ差が出ていることは、何か自分のやり方が間違っていたに違いないと考えていました。そして自分に問いかけました。商売がうまくいかない状況下で、また以前の場所に戻るかどうか? 答えは、もう二度と戻らないということでした。何が原因か知りませんが、商売は一向に良くなりませんでした。

 ある日、妻に生活費を渡す時、ふと師父の説かれた法理を思い出しました。「ですからわれわれは自然に任せるように言っているのです。時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります。あなたは自分のものだと思い込むかも知れませんが、最後になるとあなたのものでなくなります。その点から、そのことに対してあなたが無頓着でいられるかどうかを見ますが、無頓着でいられなければそれは執着心なので、この方法を用いて利益にこだわる心を取り除かなければならないのです。そういうことです。常人はこの理が悟れないので、利益をめぐって争ったり、闘ったりするわけです」 [2]

 ここ数年間、毎月いくら稼いでも、いつもお金が貯まらない理由がやっとわかりました。正しい道を歩んでいなかったこととは別に、私が気づいていなかったもう一つの心がありました。それは、私のお金はすべて私のお金ではなく、良い縁であれ悪い縁であれ、私と縁のある人たちが一時的に私に預けているもので、学費の払いにしろ、品物を人に送るにしろ、誰かにお金をあげているように見えても、実は自分のところに一時的に預けられていたものが取り戻されているだけだということでした。なぜなら社会の按排により、そのときになるとその人が何をするのか、遭遇した人であれ物であれ、遭遇したすべてはすでに手配されているからです。

 例えば、給料からなのか、親からなのか、お金の出所が按排されているのではないでしょうか。逆に、私が子どもに渡したお金は、私のお金なのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、彼がこの世に下りて来るとき、一時的に私のところに預けていたもので、将来のある時期に取り戻されるものです。そもそも私のものではなく、私はこれらの物質的利益を一時的に預かっているだけで、誰でも私のところに預けていたものを必要なときに取り戻せるのです。そう考えたとき、手放なせない常人の物質的な利益などあるのでしょうか。ほかに追い求めるべきものなどあるのでしょうか。

 修煉者が商売をする時、考え方は修煉しない人とは全然違います。商売での経験については人それぞれ異なりますが、私の場合は、そういうことを取り扱うさらに高い基準があります。したがって常人から見ると、私は正直者で、もっと儲かる方法を知らないので、商売には向いていないように見えます。

 例えば、農産物を受け取るときに、すでに梱包して渡してくれる農家に出会うことがあります。一般的には、同じ値段なら見た目が優れているものを選びますが、私は違う考えで、順番に受け取って自然に任せます。実は、どんな農産物でも私に手に入るものはとっくに決まっていて、選びに選んでも当初の取り決めた運命は変わりません。そのことに気づいてからは、たとえ現場に誰もおらず、自分だけが農産物を手に取っていて、誰も見ていないとしても同じ基準を守り、今日の農産物が数百台湾ドル、或いは1万台湾ドル以上だとしても心を動じさせません。自分が選らばなかったから品質の良くない農産物が手に入るわけではなく、さらに何回かは他の人が選んだ後の農産物を取っても、その人たちのものよりも全体的に品質が良いということが、長年にわたって何度も証明されました。他の人たちが、自分が損をしていると感じて言い争ったり、互いに悪口を言っているのを見るたびに、「修煉してよかった、そうでなければ自分も彼らの一員になっていたはずだ」と思っています。

 市場に商売に行くと、自分の役割が変わります。時にはあまり見栄えがよくない農産品がお客さんに嫌われて売れないと、名利の心が刺激されてしまい、こうなると知っていたら、やはり手に取る前に一目見ておけばよかった、という可笑しな考え方が浮かんできます。なぜ不愉快なのか内に向けて探した時、やっと利益の心が動いたことに気付きました。なぜなら、安く売ると期待通りの利益が出ないからです。品質によって値段を付けて売れば売れることは重々承知していても、この儲けへの執着心が再び動いたり、時には農産品の状態がお客様に喜ばれないことが分かっていながら、本当に仕入れて、最終的に赤字で売らなければならない羽目になったりもします。このような場合でも、荷送人と口約束した商品を購入することが可能なのでしょうか。このような簡単そうな心性の試練は、商売の時よく現れてきます。大法と修煉への認識が徐々に高まり、このような多くの悩みにぶつかった時、自分は修煉者であり、真・善・忍の基準に従って行動しなければならないことを思い出します。そして徐々にこのような些細なことを気にしなくなります。人心を錬磨する過程はとても苦しいのですが、少なくともどうすれば良いのか、方向は決まっています。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/2/451052.html)
 
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