最近取り除いた嫉妬心について
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文/ 中国の大法弟子

 【明慧日本2022年10月5日】私はこれまで「嫉妬心」については、必ず取り除かなければならない執着心であると理解するだけに留まっていて、「嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります」[1]という師父の説法について深く理解することができていませんでした。私は師父の教えをよく理解していなかったため、嫉妬心を完全に取り除くことができず、嫉妬心が生じたときにそれを抑え、他の角度から自分を慰めていたので、嫉妬心を根源から取り除くことができていませんでした。

 私は中学の時に『轉法輪』という本に出会いました。高校の時は、毎日夜の自習が終わると『轉法輪』を読みました。師父は私の智慧を開いてくださり、成績にあまり執着していなかった私でしたが、高校時のクラスの順位は、後ろから数えて何番目から、一番に跳ね上がりました。 そして大学、修士、博士と進み、学業面で順風満帆というわけではありませんでしたが、中学・高校とクラスで最下位だった私にとっては、想像を絶するものでした。この間に嫉妬心が現れ、最近はますます強くなりました。

 あきらかに問題があると自覚したのは先週のある日のことでした。従妹が私のところに来て、論文作成においての考え方、枠、及び総説論文の構想について尋ねました。これらのことは、私が博士号や修士号の取得のために勉強している間に少しずつ学び、理解したことであり、博士号や修士号の取得中に教えてくれる指導教官がいなかったため、学ぶのに多くの時間と労力を要したものでした。そこで、従妹と話しているときに、「こんな貴重なことを話していいのだろうか?  それとも、このままお茶を濁した方がいいのか」という考えが頭をよぎりました。 しかし、その思いが頭をよぎった瞬間、それが執着心であることに気づき、急いでそれを打ち消し、自分のノウハウをすべて彼女に伝えたのです。その時、この心性の関は乗り越えたと思いました。ところが、その夜、従妹と話す時に、何気なく「博士号を取るつもり?」と聞くと、 彼女は「はい、そうです」と答えました。その前までは、彼女が修士号は取るものの、博士号を取るつもりはないと思っていました。

 そのことを聞いた瞬間、いろんなことが頭をよぎりました。例えば、もし従妹も博士号を取ると、家族の中で私だけが博士号を持っていることではなくなり、みんな従妹と仲良くしようとすると、私に関心がなくなるのではないのか? もし、私が博士号を取れなかったら、私はみんなに見下され、笑われるのではないか。そんな思いと、最近の学業のプレッシャーが相まって、私は落ち込んでしまいました。

 この間、私は博士課程の卒業を間近に控えており、博士課程の卒業が一時期延期になりました。 これはごく普通のことですが、周りの同級生が論文を提出して卒業していくのを見ると、情けない気持ちでいっぱいでした。それに卒業論文も問題があり、その論文が使えない可能性も生じました。もし論文が使えなくなったら、卒業もできなくなります。いろんなプレッシャーが一気に迫り、私にとってとても大変な時期でした。電話で両親と話したとき、私は泣きながら「私は頑張ってきた、誰よりも頑張ってきた、どうして私はみんなと同じではないの、どうしてこんなに情けないの」と言いました。

 そんなプレッシャーと焦燥感の中、私は数日続けて勉強せず、鬱憤晴らしに韓国のバラエティ番組を見始めたり(元々見るのをやめ、ずっと見ていなかった)、自分を甘やかして適当なことを考え続けたりしました。 以前読んでいた小説や漫画の悪い内容を全部取り除いたつもりでも、その頃は頭の中で全部復活しているような感じでした。 それまで苦労してようやく取り除いたと思っていた色欲もまた復活して、まるですべての悪い現象が突然蘇ってきたようでした。 私は色欲に駆られて、夜遅くまで番組を見たり、ウェイボーをみたり、いろいろなよくない行いを重ね、いろんな汚い思いが湧いてきました。学法することも忘れて、まるで沈んでいくような状態になってしまいました。

 数日後、私は自分を取り戻し、最初から自分を見つめ直し、後悔し、反省するようになりました。 その根底には、従妹や同級生に対する嫉妬心があり、みんながうまく研究しているのを見ると、自分がうまくいかないのは、よい指導教官に巡り会えなかったからで、それが自分の成長を妨げているといつも思っていたのです。 不平感を抱き、悔しいと思っていたのは、嫉妬心の表れであり、文句を言い、師父の按排を疑うのは、師を信じず、法を信じないことの表れなのです。 何かあったときに考えるのは、それが法に従っているかと考えるのではなく、家族の自分に対する態度が変わることを恐れることは、「情」なのです。学位というものに頭を垂れ、それを重視するのは、名声や財産を大切にする心です。問題に直面したとき、それを考える出発点は、「自分は多くを与えた」、「自分は多くの労力を費やした」というもので、これは利己主義なのです。 さらに、この嫉妬や利己主義による欲求不満が、以前は取り除かれていた色欲を再び呼び起こし、深刻な事態を招いていました。

 修煉の道を振り返ってみると、いつもそんな問題が起きていました。 苦難や挫折に遭遇し、他人が良い結果を出しているのを見ると、憤慨し、不平を感じ、文句を言い、否定的になり、落ち込んで、学法を重視せず、いろんな理由を見つけて学法を中断したのでした。学法をしなければ、普通の人と同じで、いろんな執着心が復活してくるのです。そしてしばらくすると、後悔し、反省して、また執着心を取り除き始めるのでした。これは師父が説法の中で「嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります」[1]と、私の次元、経験に反映させてくださったのかもしれません。

 この経験を経て、修煉の道で、日常生活の中で様々な問題や、試練、苦しみに出会うことがありますが、それらに直面した時、通常の娯楽番組を観て苦痛を和らげるのではなく、学法を忘れてはいけないと悟ったのです。 また、師父が学法を中断したり継続したりしていた私のような弟子を見捨てずにいて下さったことに感謝しています。

 今後は、真剣に法を学び、あらゆる執着、特に嫉妬心や色欲の心を取り除き、いろんな理由を探して執着心を放任することをやめたいと思います。

 以上、私の最近経験したことを少し振り返ってみましたが、法にそぐわない点があれば、同修のみなさんのご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/29/449702.html)
 
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