文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月28日】私は最近、あることに気づきました。それは、修煉者にとって一つひとつの執着心は「鍵のかかった錠前」のようなものだということです。なぜ、長年取り除けない執着があるのでしょうか? その理由は、私たちがその執着の奥にある本当の原因、つまり「執着の正体」を深く理解しようとしてこなかったからではないかと思います。
師父は「波紋を呼んだ副元神に関する文章について」の中で、こうおっしゃっています。「実は、自分自身にある正しくないすべての要素も含めて、すべて大法と大法弟子の正念と一致していないものはいずれも、旧勢力の関与によってもたらされたことです。そのため、私は正念を発することを大法弟子の三つの重要なこととして行なうよう指示したのです」
個人修煉の段階では、私たちはただ「ああ、こんな執着がある」「これも取り除かなきゃ」と気づくことはあっても、それがどこから来たのか、誰がそう仕向けたのかまでは深く考えていなかったと思います。しかし修煉の中では、旧勢力がそうした執着を意図的に仕組んでいることを、私たちは理解しています。師父は『二〇〇三年元宵節での説法』で、はっきりとこうおっしゃっています「師父は99年7月20日以降、いかなる個人修煉の関も皆さんに与えたことがありません。なぜならば、皆さんの個人修煉は全面的に衆生を救い済度し、大法を実証することに切り替えられたからです」
つまり、今も取り除けないと感じている執着の多くは、私たちが法を正す中でしっかり見抜けず、否定できなかった結果、旧勢力に入り込まれてしまった可能性があるということです。師父は『精進要旨三』の「目覚めよ」の中で、「旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります。旧勢力は実質上、法を正す中で大法弟子が出てこられるかどうかに対して、いつも皆さんのそばにある巨大な関と難です」と説かれました。ですから、もし私たちがいまだに「個人修煉の中での心の修行」という枠にとどまり、旧勢力が植え付けた「古い理」に従ってしまっているなら、まさにその仕掛けられた関門の中に、自分から入り込んでいることになるのです。
ある同修は、修煉を始めてからずっと、「自分は恐れの心が強く、どうしても取り除けない」と感じていました。発正念で何度も取り除こうとしても、完全には消えず、大事な場面になるとまた恐れが出てきてしまう。その繰り返しでした。ところがある日、彼はふと気づいたのです。「そもそも、この『恐れ』は自分のものではなかった。ただ、自分のものだと思い込んでいただけなんじゃないか? それって、自分から求めて受け入れていたのと同じことでは?」。師父は『轉法輪』の中で、「この宇宙には『自ら求めるものには、誰も干渉できない」という理があります」と説かれました。つまり、自分が「恐れている」と思えば、それは自然と現れる。実際には、恐れという感情は外から来たもので、自分の本質ではなかったのです。
それ以降、彼は大法を実証するための行動を取る際に、恐れを感じたとしても、すぐに心の中でこう言い聞かせるようにしました。「これは私じゃない。恐れという存在が来ただけだ。旧勢力が、大法弟子の修煉を妨げるために送り込んできたものだ。そうだとすれば、これは法を正すことへの妨害であり、罪になる行為だ」そして、さらに心の中でこう語りかけます。「今、宇宙は法を正す時期にある。師父は、善悪や正負を問わず、すべての生命に救われるチャンスを与えておられる。法を正すことを正しく受け止め、妨害をしなければ、淘汰されずに済む可能性もある。だから、私と大法への態度を改めてほしい。妨害するのではなく、むしろ、大法弟子を迫害している悪人たちに恐れを感じさせ、彼らがその行為をやめるように仕向けてほしい。それができれば、あなた自身の位置も正しくなるはずだ」
そう考えると、自然と恐れは消えていき、心が静まり、落ち着いていくのが分かりました。それからは、法を証す行動もより安定し、自信を持って取り組めるようになり、以前のような焦りや不安もなくなったのです。