文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年3月16日】 妻(同修)の左胸に悪い症状が現れ、最近は症状が悪化して、妻は病院に検査に行きたいと思い、手術や入院のことを考えています。
私は以前に病気を経験したことがあり、妻の抱えている問題や現在の修煉状態をよく知っていたので、正直に自分の意見を言うと受け入れてもらえないだけでなく、逆効果になるかもしれないと分かっています。私と妻は別居しています。慎重に考えた後、メッセージを送り、「私自身は以前病気の状態が現れた時、正念に欠け、母の意見を聞き入れず、三つの病院に検査に行き、とても重い病気だと診断されて、やっと正念が戻って、その後は一歩一歩着実に歩んできた。私の知る限りでは、身近で病院に行った人はみな病状が悪化し、正念に頼って病院に行かない同修はみな回復した。絶対に病院に行かないようにとあなたを強制しているわけではないが、しかし、病院に行くことに同意するならば、落とし穴の縁に立っているあなたの背中を押すのと同じだ。あなたの体に現れている状態は病気ではなくて、常人の医術では根本から問題を解決できないし、あなたの意志を消沈させるだけだ。あなたは、まず自分の問題がどこにあるのかよく考えてほしい」と自分の意見を伝えました。
数日後、妻はまた痛くて耐えられないと言って、そこで、2回目の交流がありました。「ここ数年、あなたがまったく修煉していないと言ったら、悔しいと思うかもしれない。あなたは修煉していると言い、何度も逆の方向に突進していた。病院に行って、若しくは2人目の子供を産むことで今回の難関を乗り越えようとするのは、本末転倒ではないのか。現在の状況から言えば、外部の要因や解決方法を探すのではなく、このような状況を招いた自身の原因を探してください。よく考えて、この数年、正しい法理に則って理性的な選択をしたことがあるのか。しばしば歪んだ観念や共産党文化で人や物事を測って、他人に妨害や傷害を与えても自覚しない。今まで、このようなことを私はたくさん話したが、あなたはよく考えたのか。今回の関をどのように乗り越えるか、しっかり考えてください」と書きました。
書いてから、私は心の中で妻の病気の原因となる要素にこう話しかけました。「妻に不足はあるが、私はできるだけ妻に注意して直してもらうので、もう妻を妨害しないでほしい。修煉者を妨害するのは犯罪だ」と言いました。
しばらくして私は事故に遭い、体が助手席のフロントガラスと収納ボックスにぶつかって、ガラスとボックスが壊れたのですが、私は無傷でした。その衝撃の過程はまったく記憶がなくて、ただただ師父に感謝しました。
その経験を生かして、妻に3回目のメッセージを送りました。「すべてを放下して、法理で物事を見ることができるのか。あなたは家族と世間話をすると、いつも人の悪口を言っていた。口を修めることについて、あなたは今悟れるのか。もし以前のように感情、好き嫌いを掴んで離さなかったら、客観的に物事を見ることはできず、執着心も放下できないと思う。自分の正しくない状態を正すことは口で言うのではなく、行動に移さないといけない。休暇を取って母のところに来たほうが良いと思う。母は本当にあなたを助けることができる」と。
昔、妻にあることを頼まれたとき、それは嘘を付くことと同じだと思って私は断りました。その時、妻は悲しくて悔しくて、「世の中のすべては嘘だ、生きていることも嘘だ」と泣き叫びました。それを聞いて、急に目頭が熱くなって、心の中から慈悲心が生じました。妻は自身の私欲と他人のミスリードに惑わされて、法理に反したことをよくやっていたと思っています。注意しても分かってもらえなくて、これはどんなに悲しいことでしょうか!
少し前から、私は同修が経営している会社でアルバイトをしています。以前の職場の待遇が良すぎたせいかもしれませんが、今の会社の居住環境と仕事環境の苦しさがとても目立ちます。ここに来たのは偶然ではないので、ここでの生活と仕事を修煉上の突破のチャンスにしようと決心しました。しかし根本的な執着心がまだ見つかっていない気がします。やっとある日、雪と氷に覆われた庭に立っていた私は、「苦労を楽しいことのように思っているのか」と自問した瞬間、心はぱっと明るくなり、現実の苦しさは暖流のように心の中を流れました。その時、心の中には喜びしかありませんでした。
妻と同じタイミングに、同修のAさんも病気になって、家族によって病院に送られ、手術も受けました。結局、手術後は寝たきりになって、自立した生活ができません。私と同修のBさんは時間を作ってAさんを見舞いに行きました。Bさんはとても丁寧に繰り返して「あなたは神だ、立ってみなさい」と言いました。私は簡潔にAさんに「本当に内に向けて探すことができれば、本当に自分を正すことができれば、あなたの向上を止められるものはありません」と言いました。
もう一人の同修のCさんは腰に吹き出物ができて、とても痛くて、耐えられなくなって病院に行きたくなりました。母と同修のDさんはCさんの家に行って一緒に学法と交流を続け、暫くして、Cさんは回復しました。その前に、母は私に一緒に行ってほしいと言ったのですが、私は忙しくて行けなくて、「身心両面に受けた苦痛が大きければ大きいほど、除去すべき私心も大きいかもしれないとCさんに伝えてください」と母に頼みました。
同修のEさんは私の幼なじみで、極めて良い性格の持ち主で、彼が怒っているのを見たことがありません。ここ数年、彼は『轉法輪』の暗記を続けていますが、ずっと病気に悩まされています。少し前に、万が一の時に周囲の隣人たちを助けるために、母と私は少しずつ物資を貯めました。先日、Eさんに会った時に偶然に物資のことを提起すると、Eさんは「本当に他人のために物資を準備するなんて、私は信じない」と言いました。
当時の私は愕然としました。大法弟子は何をやってもできるだけ相手のために考えるので、衆生を済度するために様々な形で良いことをやるのは、至極当然なことですが、どうしてEさんはそれを信じないのでしょうか。病気がずっと治っていなかったのは、私心に固執して根本から変えていなかったせいではありませんか。それからの会話の中で、彼がある種の観念に邪魔されていることに私は気づきました。それから、Eさんの病気が急にひどくなり、私は彼を家に招待しようとしましたが、彼は感謝の意を表した後、断りました。
病が突然現れた時、それは心性を高めて、修煉上の漏れを補う良い機会と見なすことが一番良いと思います。しかし多くの同修は病気をひたすら排斥し否定して、法の中で自分を正すと誓いますが、自分自身の問題を内に向けて探すことができず、根本の執着を変えたくありません。これは己を欺き、他人をも欺くことではありませんか。
苦を楽しいことのように思うことができなければ、苦しみを受けた時にきっと非常に苦しく感じます。この時の苦しみは執着と私心に由来しています。理由もなくて苦痛に遭うことはないので、苦しみを嘗めたくないほど、心の中ではますます苦しく感じます。苦しみを嘗めたくない気持ちの中で、私心は強大になり、苦しみも強くなります。その循環は袋小路に入ったように出口が見つかりません。
一方、受けた苦しみを気にせず、自分の足りないところを探すことに専念する人は、早いうちに自分の不足を見つけて向上できるほか、受けた苦痛も転化され、苦難も自然に解消され、すべては本当に良いことに転じます。何事もそうであり、私心を失くしてこそはじめて苦痛も無くなり、苦痛だと思えば思うほど、私心もそれ相応に大きいということです。自分が感じた苦痛の程度は、私心の大きさに反映しています。
「あなたは正念で自らを指導することができず、大法弟子らしく修煉者の基準で自ら、世界そして相手を量ることができなければ、あなたは常人と同じです」[1]
同修が病気になった時、周囲の人も重要な役割を果たしています。正念と法理を以って同修を指導し、同修の正念を強める修煉者もいれば、歪んだ観念と曲解した法理で同修を惑わし、法と乖離させている修煉者もいます。
師父は「あなたに教えますが、どういう心であれ、大法弟子のプロジェクト、または大法弟子が行なうべきことに対して、足を引っ張る作用を働いたら、あなたは魔の作用を働きました。私が大法弟子であり、多くのことも行なったと思っているかもしれませんが、旧勢力はすべてを記録しています」[1] と諭されました。
「皆さんに考えてほしいのですが、旧勢力はあなたを迫害せずにいられないのです。旧勢力に迫害され、師父もなす術はありません。なぜなら、旧勢力は弱みを握ったからです。『このような生命を見てください。これがあなたの弟子ですか? こんなに出来が悪くて、懲らしめるべきではありませんか? あなたは懲らしめないようにしていますが、彼は私たち、そしてほかの人に影響し、早く懲らしめなければ!』という状況です。私が思うには、大法弟子の前にあるのは着実に修煉するという道のみであり、ほかの道はありません」[1]
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】