文/Arnaud H.
【明慧日本2022年3月22日】(前号より続く)
空間認識の相対性
前号までの内容をご覧になった皆さんは、あることにお気づきかもしれません。それは、観察者の視点が変わると、宇宙空間で方位を区別するための上下左右も変わるということです。佛家の「卍」でも、中の線は通常、横線に見えますが、角度を変えると縦線になります。つまり、角度を変えると横線が縦線に変わり、縦線が横線に変わります。しかし「卍」としては「卍」のままで、つまり単純に「卍」の形象の構造的な相対性によって固定化されています。
多くの人は「卍」の意義について、大変奥深くて、あまり理解できていないと感じることでしょう。佛の世界や宇宙を理解することはできません。これは人類の思惟構造と言語の限界によります。筆者はここで最も表面的なレベルで、基礎的な芸術理論について簡単に言葉で説明します。中国宋朝の蘇軾(そしょく)は、西林(せいりん)の壁(かべ)に題(だい)し、「橫看成嶺側成峰,遠近高低各不同」、日本語で読めば「横より看(み)れば嶺(れい)を成(な)し、側(そば)よりすれば峰(ほう)を成す、遠近(えんきん)高低(こうてい)各(おのおの)同じからず」。つまり人の空間認識は、常に相対的なものでした。
例を挙げましょう。南極に立つ人にとっての「上」は、北極に立つ人の「上」と全く正反対です。同じ理屈で、向かい合って立つ二人には、自分の左手側は相手の右手側になり、自分の右手側は相手の左手側になります。
この相対性は、絵画において非常に大事なことです。大型の絵画としてよく見られる天井画は、多視覚の構図に基づく芸術です。大型の天井画では、見える範囲のすべての角度、東西南北の各方向の人は、自分が見た絵画の向きが反対だと認識したくありません。よって芸術家は、透視投影の方法で構図を考える際に各方向の人の視点から考慮すべきで、どのような構図とすれば全ての位置の人が作品を理解できるのか、できる限り異なる視覚から考慮しなければなりません。
イタリアの画家アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ(Antonio da Correggio)による |
透視図法は、視覚空間の相対性に基づく表現手法です。対象が人と近ければ、たとえ小さな木の葉でも大きく見えます。対象が人から遠く離れれば、たとえ山であっても相対的に小さく見えます。つまり1枚の葉が目を遮れば、泰山も見ることができないのです。近ければ大きく見え、遠ければ小さく見えますが、これは透視図法の基礎原理の一つです。
しかし、これらの原理には一つの前提条件があります。それは、あくまで人の環境における法則だということです。ひとたびこの範疇を超えると、必ずしもあてはまりません。例えば、朝の太陽は大きく見え、昼になると小さく見えますが、これは透視図法の「近ければ大きく見え、遠ければ小さく見える」の法則と合わなくなります。また時空の曲がりと光の状態など多くの要素に影響されて、はるか遠くの天体の中には、天体望遠鏡で見ても真実の状況と異なることがあります。つまり、人の理論は人の次元で有効ですが、この次元を超えれば完全に別の状況となるのです。
視覚の遠近または大小は空間と関わっており、更には時間や速度などの要素の知覚とも関わります。人の視覚には、一つの特徴があります。視野が広ければ、遠くで非常に高速で動くものが比較的遅く見え、近ければ、あるいは目の前にいれば、より速く見えます。例えば、拳銃の銃弾の速度は遅くても毎秒300メートルで、人の目は全くついていけません。しかしロケットが空に昇った後の速度は毎秒数千メートルで銃弾の速度より遥かに速いのに、人の目が楽に追いつくことができ、全然速くないと感じています。これは、空間によって時間の知覚に相対性の問題が生じるからです。
視野のスケールが異なれば、認知上の差異が引き起こされることがあります。例えば、昔多くの人は、地上を真っ直ぐ走るほど、出発地よりますます遠く離れると認識していました。しかし地球自体は球体なので、人が真っ直ぐにずっと走るなら、最後は必ず出発地に戻ります。もちろん、日常生活で足元の地面が丸いと感じる人はいないでしょうが、広大な地表では、実は直線ではなく曲線となります。つまり、限りある環境では、全体の認識概念との差異が大きいのです。
位相幾何学に「メビウスの帯(Möbius strip)」という古典的な構造があります。つまり、一つの帯の片方の端で180度ひねり、他方の端に貼り合わせたものです。このようなものがあるとして、そして非常に長く、目では全体が見えないとすると、人は一部の小さい部分だけを見て、「この帯には表と裏、両面がある」と思います。しかし全体を見ることができるなら、表と裏は一つの面だと分かります。ここで「二」は「一」の一部で、通常の考え方とは完全に異なります。
メビウスの帯 |
もちろん、ここの「一」は通常概念の「一」とは違います。この帯は、そもそも2次元の平面をひねったものが、3次元の空間として現れています。もしこの2次元に一つの生物がいて、その生物が帯に沿って絶えず走っていれば、最終的には出発地に戻ります。しかし恐らくこの生物には、道の構造をいろいろと推測したところで、状況を理解することはできないでしょう。つまり「ただ自身が山にいる」と認識するということです。
もしこの帯の面を理解したいなら、3次元の概念を持って立体的にこの帯の全体を見るべきです。例えば、伝統文化の中の陰陽について、昨今の多くの人は陰と陽の二つだと思いますが、実は陰と陽はそもそも一体です。より高い次元に立つと、下の次元のものをすべて理解します。もしある次元にいて、その次元のものをすべて理解したいなら、中国の荘子が語った「吾生也有涯,而知也无涯。以有涯随无涯,殆已」(吾が生や涯あり、而も知や涯なし。涯あるを以て涯なきに隨うは、殆きのみ(訳注:人の一生には限りがあるが、知には限りがない。限りある命で限りないことを追い求めるのは危うい))のようになるでしょう。
透視図法と相対性については、多くの人にとって非常に大切です。美術専攻の学生やプロフェッショナルなら、学校で透視図法を勉強したことがあるでしょう。簡単に言えば、奥行きを生む平行ではない平行線が一点に収束して映り、画面に立体的な形を描く方法です。詳しい説明についてはここで省略します。
学校で教えている通常の透視図法 |
イタリアの画家ピサネロ(Pisanello)が描いた透視図 |
透視図法についてここでお話したいのは、人の視野に限りがあるということです。人の目では、色彩の形状への感知は視野の中心に集中しているため、中心から遠く離れると像がぼんやりしてしまうのです。今の視野理論では、人の眼球が静止している状態で縦方向の視野の角度は、60度の範囲に視野の中心があるとしました。そして人には左右の二つの目があるため、水平方向への角度はすこし広くなっています。
つまり、観察する対象の位置が視野の中心から外れると、透視図法に歪みが生じます。つまり、学校で勉強した直線の透視方法は適切でないことになります。美術の先生が生徒に教える時、モデルや対象からある程度の距離を保つようにと言うのはそのためです。近すぎると、対象に視野の中心を超える部分がでてくるので、ぼんやりとします。しかし実際に描く時は、全てを視野の中心に収めることはできず、例えば下の写真のように、必ず一部が視野の端になってしまいます。
大阪の天王寺公園の一景 |
古典的な透視図法とは異なる一部の細かい部分についてはさておき、上の写真の下の床タイルの線をよく見れば、その線は多少の丸みを帯びていることが分かります。もし、通常の直線的な透視図法に従えば、人はそれを直線的に描くはずです。
ここで透視図法であまり使わない学術用語を取り上げます。それは、「曲線遠近法」(Curvilinear perspective)と言います。人の網膜は半球状なので、この透視方法は人の目が見た画像とより近いのです。特に視野の中心から離れた対象について、この透視方法の精度は高くなります。歴史上の多くの画家もこのことに気づいており、作品にも反映しています。
フランスの画家ジャン・フーケの【サン=ドニ大聖堂へのチャールズ4世の到着】 |
これまで説明してきたように、同じ次元だとしても、それぞれの学術理論は一定の範囲で当てはまりますが、その範囲を超えると通用しなくなります。その超えた範囲については、別に通用する理論で補う必要があります。
絵画に関しては、もう一つ状況があります。人は絵画を2次元の芸術としますが、技術的視点から見れば、3次元であると言えます。具体的に言えば、多くの絵画は、奥行きの浅い3次元の特性を持っています。つまり、その絵画の対象物には、長さと幅以外に浅い深さ(奥行き)があります。ここでお話しした深さは、単純に顔料自体の厚さではなく、色と色の差異によって構成されている空間です。
ここで通常の技法を例とします。一部の画家は人物像を描く時、まず人の裸体の姿を描いて、それを半透明の色で覆い、柔らかな服装とすることで、服装が確かに人と合うようになります。描いた服装の色は人の皮膚の色に被るから、前後の空間の深さもあります。顔料自体の透明性のため、同時に内と外の色層の違いが見えます。
イタリアの画家サンドロ・ボッティチェッリ(Botticelli)の作品「プリマヴェーラ」(Primavera) |
また、霧や雨などの風景画にも、このような技法を採用することがあります。これらの技法は、たとえ実際の深さは0.5ミリメートルにならないにしても、画に真実の内外の深さを表現することができます。
また一部の画家は、このような浅い3次元を利用して、大量の顔料を積み重ね、油絵や、グワッシュの作品を薄浮彫に作り上げました。しかし、立体感や空間を表すため、一部の人は顔を描く時、鼻などの突出の部位を厚く描いたところ、結局は絵が裂けて顔料が落ち、逆に欠損をもたらしました。
ですから、芸術理論を適用するには、材料の性能も考慮しなければ、効果が得られないこととなります。
(続く)