魔難にどう対処するかについての浅見
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 文/中国山東省の大法弟子

 【明慧日本2022年3月31日】修煉する中、私たちは誰でもさまざまな魔難に遭遇することがありますが、それらはすべて人心に狙いを定めて来るものです。その時、誰もが魔難に対処する方法を考えると思いますが、今日私が交流したいのは、自分が直面した魔難は実は自分自身が造った業によるものであることを考えたことがあるかどうかということです。これが一つ目です。二つ目は、一部の魔難は大きすぎて耐えられないものなので、限界を超えた部分は師父が代わりに耐えてくださり、残った部分は自分で乗り越えられるくらいの魔難だということです。これについて考え、意識したことがあったでしょうか?

 すべては師父が私たちの修煉の次元と忍耐力に合わせて按排されたもので、最高の按排です。あなたに耐えられない魔難を師父が按排されるはずがなく、逆にあなたがなぜ自分の魔難がこんなに大きいかと言い出し、場合によっては、師父が助けてくださらないと文句をいう人がいるかもしれませんが、それこそ心性の問題です。実はあなたが耐えられる程度の大きさなのに、あなたは魔難がもっと小さくなるよう望み、師父があなたのためにもっと多く耐えてくださるよう願っているようでは、あなたは修煉するために来たのでしょうか、それとも安楽な日々を送るために来たのでしょうか。

 師父は次のように説かれました。「あなたが心性を向上させさえすれば、必ず乗り越えられるものです。それを乗り越えようとする気がなければ話は別ですが、乗り越えようと思えば、乗り越えることができるのです。」[1]

 数年前のある日、胆嚢が痛くてたまらなくなったことがあります。始めの頃はみな忙しかったので面倒をかけたくなくて我慢していましたが、4、5日過ぎると本当に耐えられなくなりました。たった数日間で7.5キロ痩せました。その時はもう正念もなく、同修を呼んでくることを恥ずかしく思い、ただどうすれば痛みが和らぐかしか考えておらず、さらに師父がなぜ助けてくださらないのかさえ考えていました。実は師父に対する最大の不敬でした。その後、本当に痛くてたまらなくなり、友人に電話をかけ、母も県庁所在地にいる兄に連絡して県の大きい病院に行くことになりました。

 病院に行く時、友人は、私が後ろの席に乗ってウンウンうなっているのを聞いていました。そして「あなたは平素非常に有能じゃなかったの? 今になってその能力はどこに行ったの?」と言い、続いて「あなたは法の暗唱ができるでしょう? 暗唱してみたら」とつけ加えました。彼の話を聞いて、これは師父が彼の口を借りて、私を悟らせているのだとすぐ分かりました。そして私は法を暗唱し始めました。『論語』から『洪吟』、また『轉法輪』の中の暗唱できる部分、思い出せる部分をとりあえず暗唱しました。

 途中で友人が降りてトイレに行きましたが、私も降りて新鮮な空気を吸おうと思いました。私は手でお腹を押さえながら車から降りましたが、皆がそれを見て納得できない表情でした。そこまで痛かったのに自分で車から降りられるのかと思う表情でした。私はまた自分で車に乗りましたが、痛みはなくなったようでした。病院についたらMRI検査を受けました。医者は検査する前から間違いなく結石だと断言しましたが、一回目の検査で何も見つからず、二回目も相変わらず何もみつからなかったので、断念しました。師父がもう一度私の代わりに耐え忍んで下さり、私を救ってくださったと分かりました。後になって同修を呼ばなかったことは心性の問題であり、自分を全体の中においておらず、自己中心で、あまりにも我がままであって、これも全体から離れた一種の行為だとわかりました。

 師父は次のように説かれました。「はっきり言っておきますが、多くのものはすでに消去してあげました。あなたのその面倒なことは本来よりずっと小さくなっており、もし消去してあげなかったら、今の面倒なことに遭って死んでしまったか、寝たきりになっているかも知れません。ちょっとした面倒なことに遭ったぐらいで我慢できないなど、そんな甘いことがどこで通用しますか?」[1]「ですから人間は済度しにくいものだと言うのです。彼にあれほど多くのことをしてあげたのに、悟らないだけでなく、逆にあんなことを言うのです」[1]

 ですから何を基点にして物事を見るかが非常に肝心であり、最初の一念がその物事の行方を決めます。魔難がやって来た時、これは自分の業をなくし、向上させるためなので良いことだと見なすと物事はポジティブな方面へ向って発展します。

 私が知っているある同修は、良くないことがあるとすぐ旧勢力の迫害だと思います。彼は常に「こいつ、死ね、死ね」と念じます。さらに念じながら歯ぎしりをします。本来は何もなかったのに、これでは逆に何かよくないものを招いてしまうかも知れません。それが本当に旧勢力による迫害であれば、それを認めなければ済む話です。どうせそのものには手に入れる資格がないのに、あなたはそれをそれほど強いものだと思い、何故それほど高く見ているのですか? ただその旧勢力を真剣に受け止める必要はないのです。

 私は忙しい時、頭の中で監視カメラや、旧勢力などを考える暇がなく、自分のやるべき三つのことをやるだけです。ある日、私たちは真相が書かれているステッカーを貼っていました。その時、日がまだ暮れておらず、通る人や車もまだ多く走っていました。運転手の同修と女性の同修が車の中で発正念し、私は車から降りてステッカーを貼っていました。貼り終わって戻ると運転手の同修は「あなたの向こう側に一人の警官がいて、目を離さずにあなたが貼り終えるを見ていました」と言いました。私は「警官も見たら、救われるので、これは良いことでしょう」と答えました。

 また一度他所の同修と仕事に行った時、彼はこう言ってくれました。「師父の説法のなかで、中国の半分の監視カメラが使い物にならないとおっしゃいましたが、私の理解では、残りの半分については私たちが悟るべきであり、どのように悟るかによります。もし師父が100%使い物にならないとおっしゃったら皆大胆にやりだすので、それではどこに悟性の問題があるでしょうか? そこでこう言う同修がいるかも知れません。そうであればなぜ迫害された同修は、監視カメラで見つけられたのでしょうか? 大法に対する私の理解では、きっと仕事をやる時の正しくない心構えが旧勢力に隙に乗じられたと思います。もし私たちが法に基づいていれば、監視カメラも働かなくなります」

 以上は個人の僅かな認識です。足りない部分があれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/2/11/438809.html)
 
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