なぜいつも同修についていくのか?
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文/中国の大法弟子 司徒  

 【明慧日本2022年5月28日】以前、私は修煉の良くできている同修を見て、いつも思わずついていき、気づいた時はすでに挫折していました。しかし、間もなくしてまた誰かを追いかけていました。依頼心であることに気づいた以外、私はまた1つの理を悟り、感想を書いて同修と交流します。

 昨日、私はこの文章を書くとき、この一段を書きました。「なぜなら、人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです。しかし、煉功者として、超常的な人間としては、その理で量るわけにはいかず、そこから抜け出さなければなりません」[1]

 私は突然「この理で量るわけにはいかず」[1]という言葉に惹かれ、これまでこの言葉を聞いたことがなかったかのようでした。私は今までこの理で量ったことがあっただろうかと考え、師父が説かれている「この理」を振り返ってみると、「誰がいいのか、誰が悪いのか」という法が目の前に現れ、普段確かにこの理で量っていることが分かりました。修煉がよくできている同修が好きで、修煉ができていない同修は好きではないし、反感も持ちました。これは常人の「貧乏な人を嫌って金持ちの人を愛します」とどんな違いがあるでしょうか? 私にこの心があるからこそ、修煉が良くできている同修の話しに対して、法に合っているか否かも考えず、一律に受け入れて、少なくとも重視しましたが、気に入らない同修に対して、彼らが何を言っても私は気にしませんでした。

 正しい心理状態はどうあるべきなのか、同修の修煉状態がよくても、悪くても、私は心を動かすべきではないと悟りました。法に則って自分を修めて、私の心の中には誰が良いのか、誰が悪いのかという考えがないのに、私はまだ「修煉がよくできている同修」について行くことができるでしょうか?

 個人の少しの悟りで、法に合っていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/4/28/441780.html)
 
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