文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年7月9日】今日(訳注:2022年5月)は、私の両親と義母が親戚関係になり、その後敵対関係になり、そして一緒に法輪大法の同修になった話をします。
父は長年他の省で働き、母は東北の実家で私たち3人の子供を1人で苦しみながら育ててくれました。30年前、私は母を1人残して南方に出稼ぎに行きました。私が社会に出たばかりの頃、母ha私の結婚の行方を占うために、地元でとても有名な占い師に占ってもらったことがありました。
その占い師は、将来の義理の家族の顔と姿がどんな人なのかを教えてくれ、特に「あなたたち両家族は佛縁によって結ばれているのですから、大切にしてください」と言いました。当時、佛をあまり信じていなかった母は不機嫌そうに「私は佛の縁なんていりません」と言いました。しかし占い師は「そんなことを言うものではありません、この佛縁は千載一遇、100年でも手に入らないものなので大切にしてください!」と言いました。
数年後、両親、義母、私の4人が法輪大法の修煉に入った時、この佛の縁とは一緒に法輪功を修煉することだとわかりました! 法輪功は法輪大法とも呼ばれ、佛家の高いレベルの大法でした。
初めて義父母に会った時、母は衝撃を受けたそうです! 占い師が語った義父母の様子は、義母は170センチ、義父はあまり背は高くなく、顔は占い師が言った通りでした。母は私が不純な心を生み出すのを恐れたのか、私が結婚後何年かして「あなたの結婚生活がどうなるか占ってくれる人を探した」と言いました。
義母は無愛想で無作法な人であり、母も道理をわきまえない性格の悪い人で、義父は国有大企業の中堅幹部で、父は企業の駐在勤務の普通の労働者でした。父はかつて長い間失業していて、私の家は貧乏でした。義父は南の幹部ビルに住んでいました。私の両親は、私が結婚した時、東北から引っ越してきて北院労働者居住区に住んでいました。私の結婚前は、双方の高齢者(訳注:義父母と両親)はお互い素性を知らず、お互いの詳しいことを知りませんでした。義父は偶然私に会ったことがあり、それもせいぜい1分程度で、この縁を引っ張ってきたのでした。おそらく義父は私が色白できれいだと思ったので、部下に私のことを問い合わせたのでした。その後、私は夫と出会い結婚しました。
義父は企業の中堅役員に過ぎませんでしたが、義母は官吏の妻を気取り、他人より自分が優れているといつも思っていました。義母は私の両親のあら捜しをしては文句を言っていました。私の家が貧乏だと思っていたからでした。私が結婚した時、妹はまだ中学生でした。義母は妹が進学することで自分の息子に迷惑がかかることを恐れ、私の家を「埋めることのできない穴」、「底なしの穴」とまで言っていました。義母はいつも私の実家に行って口論し、私の両親の前で何度も私を辱め、叱り、夫に離婚を迫るようにそそのかしました。父は腿を叩いて「私は娘を火の中に突き落としたことを後悔している! 娘の義母がこんな人だと知っていたら、絶対に彼女の家に入れたりしなかったのに!」と言いました。私たち夫婦はまだ家を職場に割り当てられていなかったため、夫は夫の実家に、私は自分の実家と夫の実家の両方に住んでいました。義母に叱られると私は実家に戻ってしまうので、基本的には私はずっと自分の実家にいました。
ある時、義母に無理やり離婚を切り出され、夫が私の実家に来たことがありました。追い詰められた母は「私の娘は妊娠していません! 離婚しましょう!」と言いました。しかし、離婚してはいけないという天の思し召しだったのかもしれません。その1カ月後、私は息子を妊娠し、義母は静かになりました。
数カ月後、私の顔に「妊娠線」がないことを見た義母は、私が女の子を妊娠していると確信しました。義母は毎日母のところに来て、私に中絶してほしいと言いました。妊娠6カ月目の時、夫がまた私の家に来て、私に分娩誘発をお願いしました。母は「初産でまだ6カ月なのに、分娩誘発したら母子2人の命が奪われるかもしれません」と言いました。義母は納得がいかず、漢方の老医師にもう一度私を検査してもらうことにしました。そこで私はお腹を抱えながら知人に連れられてミニバンに乗って村まで行くことになりました。数時間ほど車を走らせて、漢方の老医師に会いました。漢方の老医師は「男の子に違いありません。もし男の子でなかったら、私の看板を下ろします!」と言いました。帰ってから知人が義母に話したのですが、義母は私が知人に騙されたのだと思い込んでいました。知人から何度も説明を受け、義母はようやく納得しました。
息子が生まれてからは、1年の大半を平穏に過ごすことができました。夫は他の村で働き、私は出張が多く、子どもは私の母に預けました。義母はそれが気に食わず、母が孫を虐待していると言い出しました。両側の集合住宅の人がみな顔見知りで、互いに噂話をしていました。対立はどんどん深まっていきました。ある日ついに義母が母の腕から赤ん坊を奪い、トラブルが勃発しました! 義母と母が互いにののしり合い始め、つかみ合いのけんかを始めました。義母は背が高いので、腰掛をつかんで母の頭めがけて投げつけ、母は頭から血を流し、床に倒れこみました。病院に運ばれ、脳震盪と診断されました。今度こそ、両家は完全に敵対しました。
私が他の村から帰ってくると、遠くから義父が息子を抱いているのが見えました。私が義父の前まで行く前に、義父はくるりと背を向け家に入ってしまい、ノックしてもドアを開けてくれませんでした。1、2年近く、夫が他の村から帰ってきた時だけ私は息子に会うことができました。この時、義母は夫に「このままでは彼女は壁に頭をぶつけて死んでしまうでしょう!」と言い、私と離婚するようにもう一度言ってきました。この時夫は「離婚はしない! 死んでも離婚しない!」と決意しました。灰皿を叩き割って手に血がにじんだこともありました。その時やっと義母はあきらめました。
1999年以前は職場の敷地内で誰かがみんなに法輪功を教え、義母も習いに行っていました。母も習いたかったのですが、義母が行くのを見てやめました。父は大法の本を読み、法輪功がすばらしいと感じたので、自分で家で学びました。義母が法輪功を修煉するようになってから、私はいじめられる嫁でなくなり、義母の家に自由に出入りできるようになりました。毎日、義母が法輪功の著作である『轉法輪』を謹んで読み、わからない言葉を小さなノートに書き写しているのを私は見ました。以前は厳しい顔で私に接していた義母も、笑顔で私の好きな料理を作ってくれるようになり、全体的にやさしくなりました。私の父も法輪功を修煉して以来、健康状態が以前よりずっと良くなりました。
2人の変化を目の当たりにして、私は大学で学んだ気功をあきらめようと思いました。私は10年以上練習していましたが、健康状態は良くならず、その気功も心性を修めるということは言っておらず、気性もあまり変わりませんでした。そして、江沢民の政治集団による法輪功への迫害の真っ只中に、私と母は法輪大法の修煉を開始したのでした。修煉後、私の性格は明るく晴れやかになり、母の性格も良くなりました。法輪大法の法理は私たちを啓発し、心を浄化し続けました。トラブルに遭遇したら自分自身に原因を探し、善を行い、他人のことを考えなければなりませんでした。
両親と義母の間にはコミュニケーションはありませんでしたが、お互いに心の中では深く相手を許していました。もし大法を修煉していなければ、私たち両家は本当に老いて死ぬまで往来はしなかったでしょう。集合住宅の中に、あることが原因で何十年も口をきかず、出会っても回り道をして会うのを避ける姉妹がいました。修煉しない者はかつての憎しみを断固として捨て去ることができません。
私の息子が5歳の時、義母は義妹の子供の面倒を見るために他の省に行き、南方を離れ、息子を私の母親に預けました。
2006年、私は中国共産党(以下、中共)に連行され、不当に洗脳班に拘禁され迫害されました。双方の高齢者(訳注:義母と両親)が心配し、私は義父母の嫁であり、息子の妻であると同時に義父母の同修でもありました。義母は他の省から苦労して駆けつけて私を救ってくれました。義母は長年住み慣れた集合住宅に戻り、私の実家に入り、恨みつらみをすべて捨て、ドアを叩いて「お義姉さん!」と叫びました。母がドアの内側でささやくように「あら!」と言いました。千の言葉よりも、抱き合う二人は勝っていました。
氷雪が溶けた
そしてその後、義母と母はお互いを気遣い、修煉の道を決してあきらめないように励まし合いました。毎日、義母と母はうれしそうに外に出て、人々に法輪功の真相を伝え、三退するようアドバイスし、法輪大法を修煉することが人間がこの世に来た真諦であると伝えました。楽観的で落ち着いた義母と母は共に返本帰真の道を歩み、一心に人のためを思う人間になりました。
師父に感謝申し上げます! 大法の再造之恩(訳注:新しい命をいただいた恩)に感謝申し上げます!