文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年8月1日】私たちは修煉の中で様々な妨害に遭遇することがありますが、多くの妨害は情報の形で現れ、例えば夢を見るなどの妨害は簡単に見分けることができないのです。
同修のAさんはよく夢を見ますが、夢の中で起こったことが現実に起こることもあります。そのため、Aさんは夢の中の情報をとても重要視し、自分の修煉において与えられた注意として気をつけたり、心が動揺して夢に従って考えたりして、自分の修煉を妨害してしまったこともありました。
Aさんは以前、夢の中で身近な同修が迫害されているのを見たとき、心が動じて、その同修に対して警戒するようになったそうです。このようなことに遭遇したら、私たちは法に則ってそれを否定しなければなりません。さもなければ、この形の妨害は次から次へと現れるのです。例えば、Aさんは以前、警官に連行される数日前に夢を見たのですが、現実に起こったことがその夢のシーンと同じだったので、その夢は本当に正しいと思い、その後、見る夢についてとても気にするようになりました。
師父は、「あなたの変えられたあとの人生の道は、人に見られてはいけないものです。人がそれを見ていつどの段階に難があると教えてくれたとすれば、あなたはどうやって修煉していけるでしょうか? ですから、絶対に見てもらってはならないのです。他の法門の誰に見てもらってもいけないばかりでなく、同じ法門の弟子に見てもらってもいけません。そもそも誰も言い当てることはできません。なぜなら、あなたの生涯はすでに変えられており、修煉するための生涯となっているからです」[1]と説かれています。
私たちの修煉の道は師父が按排されたもので、師父だけがご存じです。師父が迫害を按排されるはずがないのに、なぜ夢の中で迫害が起こったのでしょうか? 夢の中の迫害は、師父が按排されたのではなく、旧勢力が按排したもので、迫害の情報は、彼らがAさんの夢の中に反映させたものではありませんか?
師父はこのように説かれています。「旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります」[2]
修煉の中で、師父が按排された道を歩まなければ、その夢は現実になるのではありませんか?
私たちは法を実証する中で行っているすべてのことを切り開くべきであり、過去になかったもの、旧勢力の台本にもなかったもので、彼らが新しい宇宙に関連するすべてのことを知ることは不可能です。
Aさんの夢に出てきた迫害の情報は、旧勢力が按排した一種の修煉法(難を設置する)であるかもしれません。私たちの心が動じれば、それが修煉の中に付け加えられるのではありませんか? それは、一種の妨害となり、人為的に難を増やしたのではありませんか?
Bさんは夢の中で、大法弟子たちが部屋で本を読んでいるところに、突然警官がやってきました。Bさんは、警官に見つからないように急いで本をテーブルの下の一番奥に隠しました。そのあと全員が警官に連行されたときに、夢から覚めました。
目が覚めたあと、Bさんは「なぜこのような夢を見たのだろう?」と驚き、恐怖を感じました。そしてBさんは結跏趺坐をして正念を発しました。「邪悪が動かせるのは人心であり、それは後天の觀念と執着である。これらのものは修煉者がまさに取り除かなければならないものであり、彼らがこれらのものが欲しいなら、全部与える。真の自分を彼らは動かすことができず、これらの人心はもともと自分のものではない、私の身体は自分の主意識に支配されている」と、邪悪の妨害を取り除きました。この夢から2年以上が経過しましたが、現実には何も起こっていません。旧勢力の按排は、法理上はっきりと認識されたことによって排除されました。
Bさんは旧勢力が仕掛けた恐怖の中に陥って内に向けて探したり、恐れる心を取り除いたりするのではなく、法に則って旧勢力の按排を見抜きました。これは法を正す角度から認識し、旧勢力の妨害が仮相になったのです。
私たちは大法の中で修煉し、大法の中で内に向けて探すのであって、旧勢力が按排した魔難の中で内に向けて探すのではありません。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「考えをはっきりせよ」
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】