大法修煉に対する認識について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年10月30日】以前の私はずっと、三つのことを行うことが修煉だと思い、何を修め、どう修めるかについて明確な認識がなく、概念すらなかったため、事あるごとに内に向けて先に自分を修めるのではなく、目線を常に外部に向け、修煉における向上の機会を次々と逃してしまいました。

 その頃の私はどう修めるべきかが分からず、人間の考えや観念で物事に対処し、形式的に法を学び、法の内包も見えませんでした。一時、師父の説法がよく頭に浮かんできていましたが、私はそれをじっくり考えようとしませんでした。その説法は以下の通りでした。「われわれはねらいを定めて、本当にその心を指摘し、その心を取り除くわけですから、修煉がきわめて速いのです」[1]、「人心を真っ直ぐに指し、最も速い近道で修煉できます」[1]

 その後、私は徐々に執着心を取り除くことが修煉だと分かるようになりました。「では、どの執着心を取り除けばいいのか? そうか、師父が『轉法輪』の中で個別に言及されている嫉妬心、闘争心、怨恨心、顕示心、歓喜心、および他の多くの人心を取り除かなければならない」と考えました。

 その後の修煉の中で、私は執着心を取り除くことを非常に重視しています。例えば、坐禅をする時、本来は心を静かにし、煉功音楽を聞くことに集中すべきですが、時々、急に頭に非常に良くない考えが出てきたとき、私は直ちにそれを排斥し、取り除くようにしています。

 ある日、街で2人が喧嘩しているのを見て、私はすぐに「あ、これは私に闘争心を無くしなさいという啓示だ」と思いました。その後、再び闘争心が現れたり、戦争の場面が頭に浮かんできたりするとき、私はそれが闘争心だと気づき、すぐに排斥し取り除くことにしました。たまに色欲の心が湧いてくることがあって、「色欲の心があれば絶対に成就できない」と思い、直ちに排斥しました。嫉妬心や怨恨心など、他の良くない心が出てきた時、私はそれがどんな人心かをはっきり知ることができ、直ちに抑制し、排斥しています。時々「なぜ彼はこうなんだ。なぜ彼女はそうなんだ」といった考えが出てきて、私は「他人ではなく、自分を修めるべきだ」と考え、問題に遭遇すれば内に向けて探し、自分を修めることができるようになりました。

 修煉に伴い、私はどのように自分を修め、何をどう修めるべきかについてますます分かるようになり、修煉に対する認識も深まりました。修煉には主に二つの方面があると私は悟りました。一つは法を多く学んで法理を理解し、法理に対する認識の昇華を得ることで、もう一つは心性を修めることです。

 心性を修めることは、非常に広範囲に及ぶことだと認識しています。各種の執着心や良くない人心、人間のさまざまな欲望を無くすことは、心性を修めることの一つの方面に過ぎず、大法を実証し、衆生を救い、すべきことをよく行っていく過程においても、心性を修めるべきです。実は、時々刻々、あらゆることにおいて、心性を修めることができるのです。

 修煉の過程は自分を清めていく過程です。大法の中で自分を洗浄し、次第に真・善・忍に同化し、初めて新宇宙の異なる次元の生命に要求される基準に達することができます。人から抜け出るとは何でしょうか? 常人が追求するものを追い求めず、常人が執着するものに執着しないのが人間から抜け出ることであり、神に向かっているのです。

 明慧ネットには、内に向けて探し自分をよく修め、何を修め、どう修めるべきかについて、非常にはっきりと語っている交流文章がたくさんあり、読んだことがあります。同修たちが会えば話題にしていたのは、最近どのような法理を学んだのか、問題にぶつかったらどのように内に向けて探し、自分をどう修めたかといった内容でした。このような交流は、私たちの修煉の向上に有益なのです。

 この間、滅多に会わない同修が訪ねてきて、私に会うや否やこう言いました。「最近、学法の中でいくつかの法理が分かりました。あなたとじっくり話してみたいです。つまり、修煉の初めから、私たちが出会ったすべてのことは、私たちを成就させているのです」。この話題について、同修はいろいろと話してくれ、最後に「実は、私たちが修煉を始める前に出逢ったすべての出来事もみな、私たちを成就させているのです」と言いました。同修の話は、その後の私の修煉に大いに役立ちました。

 宇宙には異なる次元があり、法理もそれに従い高まっていくものです。真に修煉するには、完全に利他的な生命になり、初めて新しい宇宙の生命に対する要求に符合できます。何をどう修めるかについて少し分かった時、私は周りの同修たちに「修煉するにはどう修め、何を修めるべきですか?」と聞いたことがあります。ある同修はその場で師父の説法を暗唱し、聞かせてくれました。「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[1]。もう1人の同修は「真の自分を見つけることです」と答えました。

 私の質問が簡潔だったので、同修もその時の自分の修煉に対する認識を一言で要約するしかありませんでした。実は、修煉の中で「真の自分」を見つけるのは簡単ではありません。嫉妬心や怨恨心が出てきたとき、私はそれに沿って考えたり、時には憤りを感じたりもしましたが、そのときの考えはすでに自分のものではないことに気づかされました。私たちの真の自分は非常に高い次元からきており、真・善・忍に同化しています。ただ、人間社会にきて以来、私たちは後天的に形成された良くない人心、観念、執着に埋もれてしまいました。内に向けて探すことは、これらの後天的に形成された、私たちの昇華を阻害する人心、観念、執着を見つけ、それを修め、取り除くことです。

 内に向けて探すことには多くの方面があります。時々私は座り、最近どんなことがよくできていなかったのか、これから必ずよくしていこうと、静かに自分のことを考えます。トラブルの真っ最中なら、言うまでもなく、必ず内に向けて探さなければなりません。そこにはきっと自分の修めるべき要素があるからです。

 以上は内に向けて探し、自分をよく修めていくことに対する私の認識です。法に符合しない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/14/450689.html)
 
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