責任
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年10月30日】このところ、同修の中には、病業の関を乗り越えている人、そうでない人がいるとよく聞いています。残念ながら私の周りでも同じような状況が発生しています。これは、他の同修に注意喚起をするために書かなければならない重大な問題だと感じています。

 私たちのグループが結成されてから、もう15年が経ちました。当時、私は新しい環境に引っ越したのですが、たまたま隣に姑と嫁がいて修煉者だったため、これは師父が按排された縁だったのかもしれません。それ以来、私たち夫婦は、その姑と嫁と一緒に学法グループを作りました。家が近いことと、風雨などの悪天候の影響を受けないことから、特別な事情がない限り、ほぼ毎日学法をしています。

 毎日学法することを続けていますが、心性をしっかりと修めていないため、何かあっても内に向けて探せず、いつも外的要因に目を向け、自分ではなく他人の不足ばかりを気にしていました。私は法を多く学び、多く煉功し、大法の仕事もたくさんやってきましたが、ただ何かあったときに自分を修めていない、と主人が言いました。

 夫も私も、心を修めず物事を行っていたため、夫は徐々に修煉を怠り、常人のことに多くの時間を費やすようになりました。学法、煉功、発正念が追い付かず、結局最後に3回も病業が現れ、その都度、病院から危篤の告知がありました。慈悲深い偉大な師父は何度も何度もチャンスを与えて下さいましたが、しかし、あまりにも長い間、法から遠ざかっていたため、また人心で物事を測ってしまい、結局、主人は亡くなってしまいました。

 夫が亡くなる2年前、ちょうどウィーチャットが流行し始めたばかりで、夫は学法と煉功よりもウィーチャットで遊んだり携帯電話を見たりして、法を後回しにしました。

 また、私の周りにいる、20年以上修煉しているベテランの同修でも、ウィーチャット、ティックトック、動画を見ています。明慧編集部もウィーチャットを削除するよう通知しましたが、一部の人はいつもいろいろな言い訳をして、それを避けています。修煉することに口実はなく、地に足を着け、地道に修め続けることに理由は必要なく、ただただ師父の言われることを聞くということです。

 そして、夫の死には、自分にも原因があります。同時に当時、そのことを見た、話を聞いた同修がどのように思い、みんな内に向けて自分を探していたでしょうか。グループの同修はいつも夫の欠点ばかりを見て、自分を修めることを知らず、この事からそれぞれ自身の原因も探していなかったのです。

 夫の死から4年後、別の学法グループの同修の義母も亡くなりました。当初、その年配同修の様子が少しおかしくなっても、他の同修は適時にそれを指摘して法の中で正すことなく、全部常人の考え方で考えていました。もう年を取ったし、小脳が萎縮し、学法や煉功、発正念も追いつかなくなり、薬も飲み、これは年配同修の個人の修煉の問題だと考え、全体の事として見なしていなかったのです。誰もが責任を感じ、正念を発して彼女の背後にある悪いものを取り除き、法に基づいて彼女と交流する必要がありました。それができていなかったので、この事を見た同修が皆、深刻に受け止めず、一方で 年配同修の嫁も含めて、内に向けて探していなかったのです。

 なぜそのように言うのかというと、それは、年配同修はここ数年、嫁(同修)が自分の物を盗み、嫁は法に基づいて照らしていないと思い、常に人心で嫁と揉めたりしていました。この事で、誰も修めることができず、結局、年配同修は1年前に亡くなりました。

 年配同修の死後、嫁も三度の病業を経験しました。何度も乗り越えてきたものの、その後、この事を見聞きした人の中には、結局他の同修ばかりを見て、真に内に向けて、自分の非を探す人はあまりいませんでした。今、その同修は1ヶ月以上グループに来て法を学んでいないのです。彼女は家で、独りで学法し、時々夫が読んであげますが、多く法を学ぶことはできません。

 その後、同修は彼女を別の同修の家に送り、20日以上住ませ、状態が良くなったとき、また家に帰しました。家に戻って、彼女は自分で学法していましたが、どうにも安心して勉強ができませんでした。県外にある母の実家には3回ほど帰省しており、そこにも修煉する環境は整っていません。1ヵ月後、彼女のところに週刊誌を届けに行ったのですが、話してみると、彼女の言葉は論理的でなく、一つのことを何度も繰り返し、主意識がはっきりしていないようでした。

 この状況から見ると、グループから離れるということは良くありません。師父は私たちに、共に法を学び、共に交流し、問題があれば互いに指摘し、互いに向上し、共に精進するようにとおっしゃいました。病業の試練がある同修は、みんなと離れて家でひとり勉強するのは適切ではありません。その同修に責任を負って対応しなければならず、どんなに忙しくても無視してはいけません。一緒に法を学ぶ時間を作り、発正念をし、交流しなければならないのです。これが師父が言われた法の学び方であり、無視してはならないのです。同修の状態で、その表面の現れを見ず、まず自分の非を見つけ、自分を修めること、なぜなら、それは師父が按排されたのではなく、旧勢力が按排したもので、みんなで旧勢力の按排を否定しなければならないからです

 同修の行動には、私たちが修めなければならないことがあります。共に内に向けて探し、師父が按排された道を歩むことです。自分の周りの病業の同修に対し、責任を持って見守ってほしいと思います。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/23/449849.html)
 
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