色欲の心が取り除かれず 旧勢力に迫害された痛恨の教訓
■ 印刷版
 

 文/中国河北省の大法弟子

 【明慧日本2022年10月31日】私が小学生の頃、文化大革命が始まり、父は歴史問題を理由に批判され、帰宅が遅くなったり、夜中になったりすることがよくありました。その度、私は恐怖で心臓がドキドキしていました。それに我が家は5人姉妹の女の子ばかりだったので、近所の人たちからよくいじめられていました。

 一、人心を深掘りし 色欲の念を根こそぎ掘り出す

 私は党文化の中で育ち、都市の知識青年として農山村に赴き農業生産に従事していたため、多くの恐怖心が蓄積されていました。その後、恋愛小説を読んだり、恋愛ドラマを見ることにより、情や欲を人生の中の美しい一部分だと思い、無意識のうちに脳裏に非常に強い色欲の心を作り出し、不品行なことをやり、結婚前には夫と性的行為を行いました。これは神にとって痛恨なことです。ポルノが氾濫し、性の解放に妨害されるなか、男女の間の問題も犯したことがあり、神が人間に定めた思想と行動に背き、大罪を犯してしまいました。

 修煉を始めてからも、観念が切り替わらず、色欲の問題に対する理解度が低く、自分はすでに、色欲の心がなくなったと思い、夫婦間以外のことがなければ、色欲の心を修めたことになると思っていました。ここ数年間多くの妨害に遭いましたが、この問題について探すことをせず、この面で修めておらず、旧勢力がこれを理由に自分を迫害しているとは思いもよらなかったのです。

 以前は自分を修めることができず、学法は形式に留まり、着実に修めることができなかったため、実際は学ぶことも修めることもできませんでした。邪悪の全面的で破壊的な試練のなかで、この人心が込み上げてくると、色欲の戒めをやぶり、旧勢力に迫害の口実を掴まれてしまいました。邪に悟ってからやっと覚めましたが、もうすでに遅く、造った罪は大きいものでした。

 振り返ってみる度に、自分は極めて汚く、大法を修める資格がないと感じますが、心の中では、大法は素晴らしく、生命を救う大法であり、現世で大法に出会い、師父の慈悲深い救い済度に出会えたことがどれほど幸運であったかを知っていました。私は自分に問いかけました。「修煉する機縁を大切にしてきたのか。なぜ、失われて初めて大切にすることを知るのか」と。その時、自分が運命と関わる根本的で大事なことに真剣に向き合わず、現代の道徳が滑落した概念にとらわれ、人間らしく振る舞えていなかったと感じました。法に照らしてみると、このような思想行為はすでに地獄以下にあると知り、あまりにも恐ろしく感じました。

 古代中国では、男女の間では直接物のやりとりをしない、髪の毛をいじってしなを作ることは軽はずみで勝手気ままとされ、夫婦は賓客に対するよう互いに相手を尊重し合い、友人のようになるようにと言われています。男女の間のことを罪業とみなし、痛恨していました。女性としてさらに自尊自重すべきで、廉恥をわかるべきでした。私は徹底的に自分を正し、心から夫に申し訳ないと思い、彼に「以前、色欲の面でたくさん、間違ったことをしてしまい、あなたに申し訳ありませんでした。大法を修めていなければ、師父の限りない慈悲なる悟らせと戒めはなく、これらを認識することができず、今自分がどこにいるのかわかりませんでした。」と言いました。夫は「過ぎはことは仕方ないですね、迷っていたからね、今は衆生を救い済度して補ないましょう」と言いました。師父が弟子に正しい道を歩むようにさせている、常人がこのようなことに遭遇したら、このように処理できるのでしょうか。大法を修煉する人だけにしかできないことです。ここは浄土なのです。

 二、観念を変え 色欲の心を徹底的に取り除く

 ある日、座禅している時、師父は私の隣に糞の山があることを見せてくださいました。その後、私は「糞を早く片付けなければならない、誰が糞で汚染されることを望んでいるのか」と思いました。師父は、「高い次元から見れば、常人は社会の中で、まるで泥んこ遊びをしているようなもので、汚さも知らずに地面で泥まみれに遊んでいるのです」 [1]と説かれました。以前、自分の潜在意識の中で、色欲の類は、常人の中では汚いと思わないとして黙認していたのですが、それは常人と同じではなかったのでしょうか? そして、意識の中で、常人の中の男女の営みを人間の中の美しいものだと思って憧れていたのですが、この観念を抱いていると、色欲の心を取り除くことができないばかりか、あたかもそれが自分の身体に張り付いているような状態になってしまいました。これは、色欲を手につかんで、それを手放さないことと同じではないでしょうか? 師父は私に、色欲は汚いもの、泥の山、糞の山であると悟ることができれば、すぐにそれを捨て、きれいにすることができると悟らせました。ひとりの修煉者として高い次元に立って物事を見なければならないし、常人の視点ではなく、修煉者の視点で問題を見て対処しなければならないのです。

 学法を通じて、情は三界内にしかなく、それは人間の生き方であり、三界の外は高次元であり、情というものは存在しないし、生まれつきのものではないことを認識できました。色欲はさらに外来的、後天的に形成された変異された観念であり、邪霊の憑き物であり、それを認め、それを必要としてはなりません。私はこの心を修めることをはじめました。街で見回すことをやめ、魔に隙に乗じられないように、男性同修と2人だけでいないようにしました。邪念が出てきたら、「きみは『色魔』だ、ここにきみの居場所はない」と言い、それを発正念して取り除き、自分の考えのなかに形成された頑固な変異された観念、汚い考えを取り除き、色欲という悪魔を徹底的に取り除きました。

 今、汚い考えが少なくなってきて、正念がますます強くなって、かつての失敗を思い起こして反省しています。同修は「色欲は邪悪であり、修煉者を台無しにさせることが容易にできる」と述べました。確かにそのとおりです。自分と同修のみなさんに、これは軽視してはならない肝心な問題であることに注意して頂いたいです。私の深刻な教訓を同修のみなさんが戒めとすることを望みます。

 三、色欲を再び取り除き 旧勢力の按排を否定する

 しばらくして、この認識を書き出そうとしましたが、最初は妨害がかなり大きかったのです。邪悪は私の敏感な部分を攻撃し、自分と他人の敏感な部分を見るよう自分を制御させました。邪悪は私の考えをコントロールし、敏感な部分にすべての考えを集中させ、自分を変形した脚で歩かせ、汚い思考は波のように次々と込み上げて、きれいに排除することができず、さらに腕の筋肉さえ一塊ずつ揺れ動いていました。

 ある日、集団学法が終わり自宅に帰ってから、引き続き学法しようとしたところ、またこの類の現象が現れました。私は同修の書いた色魔を取り除くことに関する文章のなかで、もし汚い考えが生じたら、それらの現れ、存在さえ認めない、この種の魔難自体の存在を否定し、瀕死のあがきの現れも認めない、きみたちの按排のなかで修煉しない、根本的に認めず、全般的に否定する内容があったことを思い出しました。私は法を正す師父の助けをしている、迫害に耐えるために来たのではない、また債務を返済するためにきたのでもない。私は大声で邪悪に向け、これらの言葉を口にしました。一瞬にして、すべてが正常な状態に戻りました。何も発生しなかったようで、頭脳明晰になりました。師父が助けてくださったと知りました。

 そして私は何回も書き直し、書く直すたびに自分を分析し、書き終わったと思っていたところ、師父は再び内に向けて探し、再認識し、この心を修め、旧勢力の按排を否定するように悟らせました。

 師父は、「旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります」[2] 色欲に関する私の様々な現れこそ旧勢力が按排したのではないでしょうか。そもそも旧勢力はそういう段取りをしたのです。

 師父は次のように説かれました。「旧勢力、旧宇宙は何を最も重く見ているのでしょうか? まさに色欲であり、男女間の問題、このことを最も重く見ています」[3]

 師父はすべての衆生を寛大な態度で対処し、すべての衆生を救いたいと思っていますが、旧勢力は私の間違いにしがみつき、私を淘汰させようとして、私の取り除かれていない色欲を利用して、この方面で大きな罪を犯させ、邪の悟りをさせ、大法を破壊し、そして私を台無しにさせようとしました。色欲の心が重く、色欲の戒めをやぶった私に対して、旧宇宙の生命らは私を下に押しやりました。私は本当に旧宇宙の神々が私を下へ押し、私が上がってくるのを阻止しようと列を並んでいるのを見ました。

 また、私が精進している時、羞恥心のイメージが頭の中で浮かんできて私を邪魔することもありました。一度、師父の説法第七講を聞いていて、そろそろ聞き終わる時、汚い考えや口に出せない言葉が頭に浮かんで来ました。私は、「お前は取り除かれるべきゴミだ」と言いました。説法を聞き終わったとき、旧勢力が私を手放そうとせず、私の空間場のなかの汚いもの、糞を投げ捨てている、私に大法と師父に不敬という大きな罪を犯させ、その根本的な目的は私を台無しさせることであると、自分は旧勢力の手段を見出すことができました。私はそれに言いました。「これはお前がやったことだ、お前が考えたことで、お前が私に糞壺を投げ捨てたのだ、私はまったく認めないし欲しない」と。今になって分かって来ましたが、なぜ少し前に「自分が成就できないことを恐れる」という執着心が常にあったのでしょうか。それは、私の分かっている一面が、「こんな大きな罪を犯したので乗り越えることが非常に難しい」と知っていたからです。師父の守りや悟らせがなければ、この関で私はダメになっていたかもしれません。今になって旧勢力のすべての按排こそ、本当に法を正すことを妨げるものであり、旧勢力は衆生を台無しにしており、師父は寛大な態度ですべての衆生を対処し、私を成就させてしています。そして如何に難しいことだろうかと、はっきり見抜くことができました。師父の広々とした慈悲に心から感謝します。私は全宇宙の神に向けて語りました。「私は李洪志師父の弟子である、ほかの按排は要らない、認めない。色欲の心、邪な悟りはすべて旧勢力の按排であり、大法弟子に対して罪を犯していることである。法を正すなか、マイナス作用を働くものは淘汰されるべきである。神々に分ってほしい、私の修煉の道のりを按排したり阻止したりしないこと、私には師父と大法がいらっしゃいます、私は必ず大法のなかで自分を正し、師父は絶対私を洗いだしてくださるはずです」と。

 私は確固たる一念を発しました。旧勢力のすべての按排を徹底的に取り除き、旧勢力が私に無理やり押し付けた迫害を徹底的取り除き、邪悪や黒い手、卑しい鬼、共産悪霊を解体しよう、と。私は繰り返してこの正念を強くさせました。

 この時、私はエネルギーに包まれ、瞬く間に天体は清く透きとおりました。私の脳裏には「圧力に耐え、表に出て法を実証した弟子は偉大です」[4]という師父の法が再び浮かび上がりました。師父が下さった最高のもの、「大法弟子」という神聖な称号をはじめとして、大切にしてまいります。

 ここまで書いてみると、この世でより良い生活をしたいと願い、自分だけを考える根本的な執着や、片方の手で人間のものにつかみ、もう片方の手では師父に天上からの幸せを与えてくださるように願うことが、いかに愚かでばかげたことかがよくわかりました。また、向上したい、精進したい目的が不純であり、すべてその私心から発したことに気付きました。

 私はかつての自分を忘れ、ただ法を多く学び、真・善・忍の基準で自分を律し、良い人間になることから始め、大法のなかで真に修め、着実に修め、時間を大切にして人々を救うことで師父の慈悲なる苦度に答えたいと思います。

 私を地獄から掬い上げ、きれいに洗い、修煉させ、神への道を歩ませているのは師父だと知っています。私を変え、一度堕落した私を再び作り上げたのは大法なのです。私は師父の按排された道をしっかり歩き、自分のすべての考えを法に照らして修め、衆生を救い済度するなかで補っていきたいと思います。

 以上は私が色欲の心を修めた過程です。もし不適切なところがあれば、同修のみなさんの慈悲なるご指摘をお願いします。合掌!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「考えをはっきりせよ」
 [3] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「圓満成就に向かって」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/8/10/446657.html)
 
関連文章