「男女の違い」を少し理解する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本11月1日】10年前、私は拘置所に不法に拘束されたとき、内に向かって探すせるように、同修が裏ルートを通じて私にメモを送ってきました。メモにいくつかの項目を並べて書いてありました。その中の1つは、色欲があるかどうかです。実は、私は昔からこのことに非常に厳しく、まだ30代前半であったにもかかわらず、修煉が始まってから、自然に色欲を断ち切っていました。その後、迫害のため夫に離婚され、再婚など考えたこともないのに、どうして色欲があるのでしょう。

 同修が書いてくれたメモは、偶然ではないため、私は絶えず内に向かって探していました。思い出してみると、ある迫害され流浪の身になっている独身男性の同修は私に「気になる」と言いました。私は腹が立ちました。実は私は彼がとても嫌いです(これも情)。だから色欲については、全く思い当たる節がなかったのです。私は常識はずれな言動はしていないのに、どうして彼がその考えを持っているのか理解できません。しかし私は、かつて彼を助けたことがあります。居場所がなく難民生活している人は、助けてくれた人に対して好意的な気持ちを持つかもしれません。それは彼の問題ではなく、私の問題だと思います。男女間には必ず節度が必要です。もし同修に誤解を与えたら、実は同修に対して無責任過ぎます。同修の修煉に人為的な障害を作ることになります。流浪の同修を助けるのは当たり前ですが、必ず節度を守らなければなりません。同性の同修を助けるのと同じではいけません。男女には区別があるからです。

 以前、私は個人的に大法を修めているので、そんな性的な考えはなく、男性を異性として扱わず、ただ同じ大法を学ぶ同修だと思っていました。それは大きな漏れです。私たちはまだ常人の中で修煉しており、物事を行うとき、最大限に常人の状態に合わせてはいけません。男女はやはり違いがあるので、区別しなければなりません。それは人に見せるのではなく、神に見せるのです。人の目に見えないことは神がすべて記録しています。人としての礼儀を律しなければなりません。私は突然、師父の「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」 [1] の意味が分かるようになりました。素養のある人は、人の中で礼儀と節操がありますが、現在の人は伝統的な礼儀作法を知らないのです。

 細かく探してみると、法に従っていない行いがまだたくさんありました。例えば、他の地域の男性同修と地元の男性同修の多くは私と連絡を取りたいと思っています。表面的には私は正念が強く、仕事がスムーズです。その裏には旧勢力が入った多くの要素があります。異性同士が惹かれ合い、男女が一緒に仕事をしたりしてうまくやっていけます。実はこれらはすべて変異の観念で、知らず知らずのうちに大法を逸脱してしまいます。ある時期、私は受付専門になり、いろいろな法を実証する事が私に来ました。プロジェクトが大きくなればなるほど、範囲も広くなり、つい法から離れてしまいました。毎日忙しく仕事をしていて、法の勉強が頭に入らなくなりました。後に不法に連行されました。そうなったのはやはりこの部分に要因があると思います。

 拘置所を出てから、私は自分の過去を何度も反省して、内に向かって探しました。自分には色欲がないからと言って、男女の区別なく自由に付き合うのは良くないのです。師父は「芸術団の学生に対して、普段男女を接触させないようにしています」と説かれました [2] 。神韻は標準であり、私はこの高い基準で自分を要求します。私は基本的に連絡の必要がない異性の同修の連絡をすべて切りました。法を正す過程で、今日に至って、実は私たちに対する要求はもっと高いのです。異性に好感を持つのは、色欲です。自分の一つの思い、つまり一念をすべて法で測らなければなりません。

 もう1つ、私にも気になっていたことがあります。いつも警官に普通の生活を乱されるので、私は交番に行ってそこの警官に何度も真相を伝えに行きました。ある警官は真相が分かった後、三退(共産党、共青団、少年先鋒隊から脱退)をしました。そして私を少し助けてくれました。ある時、他の同修が連行されたので、彼に状況を調べてもらい、さらに真相を話しました。話が終わるころに、彼はそれとなく私に好意を示しました。その時私は反応しないで、他の話しをして気をそらすようにしました。帰ってきてから考えると、 彼はどうしてこんなことを言うのだろう。彼の愛情を受入れる気はなかったのですが、心の中で少し嬉しい気持ちになっていました。これは色欲ではないでしょうか? 他人の問題ではなく、自分の空間場にこれらの悪い物がなければ、このような悪いものを招くことはありません。

 時々、彼が言った言葉をつい思い出してしまうことがあります。実はそれらの言葉はその人の本当の思いではなく、すべて色魔にコントロールされて言ったものです。私はこれらの言葉を思い出すことは魔を招くのではないかと思いました。その後、この警官がまた一回邪魔に来ました。私はとっさに我に返りました。旧勢力は人を人とは扱わず、利用してから壊します。大法弟子に過ちを犯させると同時に、生命も破壊してしまうのです。私は衆生に対して本当に責任を持たなければならないし、自分を良く修めることでしか衆生を救うことはできないのです。私は絶えずこの悪い考えを排斥して、絶えず自分を清めて、自分を修めて、そして、この難関を平穏にクリアしていきました。 

 人間でいる限り、情があります。一緒にいる時間が長くなると、感情が生まれます。こういう低級な誤りを犯すことはないですが、考え自体は物質であり、時間が長くなったら、修煉を妨害します。お寺での修練はこれらのものを避けました。しかし、私たちは常人の中で修煉していますので、必要のないものは接触しないほうがよいと思います。 

 私には、常人の異性の友人はいませんし、異性の人を家に呼ぶこともしません。 というのは、私は一人暮らしですので、この人間という層の理を破ることはできません。 親戚でも単独で異性の親戚と付き合いません、同修も同じです。同性の同修で解決できることは、異性の同修にお願いしません。 もし、やむを得ず異性の同修のところに行く場合、第三者を同席させるようにします。 年齢や先輩後輩に関係なく、可能な限り同じ車に乗るとき、隣には座らないようにしています。 つまり、男性が前列に座り、私が後列に座る、男性が後列に座り、私が前列に座るということです。 昔は、男女が同じ部屋にいるときは、怪しまれないようにドアを開けておかなければなりませんでした。 

 古代の人々は、男女の間のことにとても厳しかったのです。 私はずっとこの問題に注意していましたが、実際は本当に多くの問題がありました。 現代の変異した観念で何が正しいのかはっきり分からなくなりました。 「色を避けるのは矢を避けるようなものだ」という古くからの言い伝えが理解できるようになりました。 ですから、男女の間のことは区別をするように意識しなければなりません。これは未来へのレガシー(残しておくもの)でもあるのです。

 これまで、対面で真相を伝える中で、意外な出来事は1件もありませんでした。 「怖いこと」があっても、「危ないこと」はありませんでした。 これは、私自身の修煉にも関係があると言わざるを得ません。法の中にいれば、師父は何でも私たちのためにしてくださいます。法の中にいなければ、簡単に邪悪に隙に付け入れられるでしょう。 自分の考えを正すことで、初めて正しい修煉の道を歩むことができ、より多くの人々を救うことができるのです。 特に、男女間を混同する問題は、とても大きなタブーです。 

 個人の悟りです。法理に会わないところがありましたら、慈悲なる訂正をお願いしたいと思います。  合掌

 注:
 [1] 李洪志師父著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父著作:『各地での説法八』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」

【編集注:本文は著者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/23/443802.html)
 
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