無条件に「私が間違っていた」と認める
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年11月2日】内に向けて探すことについての私の体得は、同修あるいは常人とのトラブルの中で、無条件に自分に対して「私が間違っていた」と認めることで、これは根気よく行うことで得られるものです。当然ながらその過程は心骨をえぐられるように痛く、多くを費やし、倍の努力を要します。これは私が曲がった道を多く歩んだ教訓を得て体得したことです。

 正直に言って、私は悟性が良くありません。1995年に幸運にも『轉法輪』に出会いましたが、1998年になってから修煉の決心をしました。しかし修煉とは何かがよく分からず、修煉にあまり心を使わず、時間があれば少し学法するだけでした。

 1999年「7.20」に邪悪な迫害が始まりました。私は何度も迫害され、拷問で苦しめられる過程の中で自分を修めなければならないと、自分を探し多くの不足を見つけ、法理に対して多くの認識を得ました。数年経って、自分はどのように修めるのかをすでに知っていると、当然のように思い何が修煉なのかを知っている、自分はけっこう良いと思っていました

 私は学法も真面目に行い、気が散ることもありませんが、しかし往々にして法の中で説かれている修煉者の正しくない状態がどれも他の人のことを言っていると感じ、自分はどれも正しい状態で、三つのこともしており、けっこう良いと思っていました。何年もずっとこの状態の中で修煉していて、程度は変わっていたかもしれませんが、根本的に、本質はずっと変わらず、どこに間違いがあるのかを知らず、まだ自分は良く修めていると思っていました。

 しかし実際は、自分が修めていないことに気づいていませんでした。例えば「内に向けて探す」ことですが、私は自分が正しく行っていると思っており、正しくない所は、態度が悪く怒りっぽいところで、それは極めて自然で、瞬時に相手がどうしてそんなに悪いのか、これで私が怒らないはずがあるのか? 私が怒るのも原因がある、と思っていました。

 現在私がはっきり分かったのは、自分の人心、執着、邪党文化、現代の観念の意識などに厚く包み込まれ、障碍になり、本当の自分の修煉状態、つまり「本当の自分の姿」が見えず、自分はこうではない、自分には関係がない、自分にはこの問題は無いと思っていたのでした。

 この問題を認識出来てから、他人とのトラブルの中で、無条件に「自分が間違っていた」と認めるべきだと思いました。これが私の修煉の中の重要なターニングポイントになりました。

 数年前、私と姉とのトラブルはまるで死んでも解決できないほどでした。大法弟子は衆生を救う責任があり、人を滅ぼしてはならないと思いましたが、どうしようもありませんでした。問題の表面の正誤にこだわらず、ただ無条件に自分の間違いを認めることで、トラブルを解かなければなりません。しかし姉は許してくれず、私を拒絶しましたが、私は何度も姉に謝って、ついに姉がチャンスをくれたのです。生まれてから一度も、自分に間違いがあると思わなかった私が、何度も何度も謝らなければいけないことは、本当に心骨をえぐられるほどでした。もし大法を修煉していなければ、本当に出来なかったことでしょう。しかしこの大きな一歩をふみだすことで、私は全く新しい修煉の段階に入ったのです。

 トラブルが解けてから、修煉し学法する中で、師父は私にどこが間違っているのかを示し、確かに自分は間違っていたと心から納得させて下さり、自分に間違いがあると認めたくなかったことに気づきました。自分は間違っておらず、自分のどこに間違いがあるのかに気づきませんでした。今後の修煉の中で、私は必ず他人とのトラブルの中で、無条件に自分に対して「私が間違っていた」と認め、自分を探して修めようと思いました。

 最初トラブルに遭った時、私はまた習慣的に、無意識に他人に対処していましたが、私は注意して、「あなたは必ず他人とのトラブルの中で、無条件に自分に対して『私が間違っていた』と思っているか?」と考えることで、だんだんとトラブルの中で、比較的多く認識できるようになり、自分に対して「私が間違っていた」と言えるようになりました。

 このように努力して学法する中で、師父はいつも私のどこに間違いがあったのかを見せて下さり、いつも私が自分の間違いを心から納得できるようにして下さいました。私はだんだんと冷静になり、突然やって来るトラブルに理性的に対処できるようになり、だんだんと自分の内心の奥深くにある多くの人心や、執着、変異した観念が見えた時、自分は間違っていないとはもう言えなくなり、真に心から人として穏やかになれました。以前の私はとても独りよがりで思い上がり、自我に執着していました。

 学法する中でも、だんだんと自分の問題、不足を見つけました。実は法の中で全て述べられていたのですが、私は長年学法していても気づかず、自分を修めていなかったので、法理が見えなかったのです! まるで、私はやっと大法修煉の門に入ったようでした。学法する中で絶えず新しい認識、悟りがあり、自分の間違いに気づくことができました。

 絶えず他人とのトラブルの中で、無条件に自分に「私が間違っていた」と根気よく認めることで、自分のさらに深く隠されている人心、執着、不足、変異等の問題が見えるようになり、また修煉の厳粛さを更に感じ、更に修煉の機縁を大切にしなければならない厳粛さを感じました。

 個人の認識に限りや不足があり、間違っているところがあれば、同修の指摘をお願いします。ありがとうございました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/11/450414.html)
 
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