文/中国の大法弟子
【明慧日本2022年12月12日】数日前、私は病業の関を経験しました。以下では、その病業の仮相の状況を書き出して、皆さんと交流したいと思います。法に符合しないところがあれば、慈悲なるご指摘を宜しくお願いします。
2022年10月30日の朝、私は起床して6時の発正念をしてから朝食を作ろうと思ったところ、急に右足に激痛が走りました。腰椎から踵までナイフで切られたような、呼吸するのも怖いほどの痛みで、座っても立ってもいられませんでした。数分で、私はびっしょり汗をかきました。
主人は「腰椎椎間板ヘルニアだろう。神経を圧迫している」と言いました。私は以前この病気に罹ったことがありますが、これほどひどくはありませんでした。私の状況を目にした息子は、「病院に行って検査してもらいましょう」と言いました。私は「行かない。気にしなくていいよ。すぐ治るから」と言いました。私が行こうとしないのを見て、彼は妹に電話しました。電話の中で、娘は「疫病が流行っているから、行くこともできません。きっと体を冷やしてしまったせいでしょう。病院に行かないなら、兄さんに『カイロ』を買わせて貼ってください。それは薬ではありません」と言いました。彼らを安心させるために、私は何枚かを貼りました。2時間ほどで痛みがほぼ収まりました。
2日目、3日目、そして4日目に同じ痛みが現れて、ひどくなる傾向さえありました。私は心の中で「法輪大法は素晴らしい! 真善忍は素晴らしい!」と暗唱し続けました。その間、私は内に向けて探し、いったい何の執着心がこの魔難を招いたのかと考えました。多くの人心を見つけ出したものの、根本的な執着は見つかりませんでした。
探し続けていくうち、私はふと、「私には良い生活を送りたい心がある」と思いました。魔難の前日、私は姉が買った新しい家を見に行って、羨ましがっていました。「人生の大半を過ごしてきて、未だに持ち家がなく、息子と同居しながら顔色を伺わなければならない。しかも商業用物件に住み、いつも寒い冬を忍んでいる。同級生たちの誰もが私よりましで、家や車があって、退職金ももらえる。兄弟たちも皆良い暮らしをしている。私だけがこんな惨めな生活を送っているのだ」と、思わず悲しくなりました。
何よりも、主人は息子をかばうばかりで、商売で儲けたら喜んで大金を息子の嫁に渡すくせに、私が少しでも要求すれば細心に計算します。それにいつも私のことを警戒し、息子や嫁にはペコペコしながら私にはまったくの無関心です。思い通りにいかない事に出くわす度に、私は「自分の人生がなぜこんなに惨めなのか? 大法を修めていなければ、絶対に引かない。彼らとどう戦おう?」と考えていました。
数日が経って、私はやっとこれらの人心、最も根本的な執着を見つけました。「これは修煉とは言えない! こんなに強い人心を持っているなんて、大変なことではないか! 大法の基準に符合しないだけでなく、このように修煉していけば逆戻りしてしまうのではないか?! 以前の自分にも及ばない。以前の私は悔いなく犠牲を払い、孫と孫娘の面倒を見たり、息子の交通事故の借金を返したり、地方に来てから息子の家の購入や孫娘の大学進学などの手伝いもした。実家の土地が人に取られたとき、数十万元もそのまま諦めた。その時の自分は損得を考えていなかった。なぜ今になって利益を計算するのか?! すべてに因縁があるのではないか? 借金があれば返済するのは当たり前ではないか?」
ここまで考えると、私は自分がいかに利己的であるかに気づき、修煉者どころか、常人にも及ばないと自覚しました。苦しみの中で私はこう悟りました。「あれこれに執着して、何の意味があるのか? それらは生まれる時に持ってくることのできるものでもなければ、死ぬ時に持っていくことのできるものでもない。すべての人心をさっさと捨てるべきだ」。その瞬間、私は名も利も惜しくなく感じ、すべての人心を放下しました。私はこう自問しました。「これほど大きな法を修めていて、大切にすべきではないか? まだ人間から抜け出そうとしないのか? このすべては、自分のその人心が取り除かれるための試練ではないか? 良い暮らしを与えられたら、喜んでずっと人間としてい続けていくのか? 万古の期待は無駄になってしまうのではないか?」
「修煉を第一にすべきだ。あるべきものなら手に入るし、そうではないものは求めない。正法修煉の最後にきており、これらの良くない人心を抱いていてはどうするのか?! 師父は焦っておられて、私のような意気地がない弟子を見捨てたくないのだ。この執着心を捨てよう。中途半端ではいけない。本気で臨まなければいけない」
そう思うと、私は恥ずかしくてなりませんでした。本当に基準に程遠いのです! 衆生はみな危難の中にあって、大法弟子は衆生が救われる唯一の希望です。人を早く救おうと考えず、自分がいかにして良い生活を送れるのかとばかり考えていては、間違いではないでしょうか? 本当に師父の慈悲あるご済度に申し訳が立ちません。法をよく学んで自分をよく修め、多くの衆生を救い、大法弟子の重大な使命を果たし、合格した弟子となって、師父の心労を減らそうと決心しました。
さらに探し続けていくと、最近の自分はグループ学法に参加せず、学法したければ学法し、眠くなったら寝室に行き、学法の最中に水を飲んだり、何かを食べに行ったりしていました。これらはすべて、法に対する自制心が欠けた不敬な行為でした。
また、私は口を修めておらず、人の陰口を言う党文化もありました。それが真我ではないので、今後必ず改めます。
根本的な執着心を見つけ、それを取り除こうと決心した後、師父はその病業を取って下さいました。私が観念を変えた5日目に、足はまったく痛くなくなり、歩きも軽くなりました。別の次元に入ったようでした。そして、病業の関はほかでもなく、心性の関であることを実感しました。病業が消え、心性も高まり、一挙四得ではないでしょうか? 修煉は、人心を一層一層と取り除いていく過程です。業を消す過程で、人間の念と正念が競い合います。人間の念は「これがまさに以前の病気だ」とあなたに教え、正念は「絶対に認めない!」と言うのです。そこで私は発正念を行い、すべての法に符合しない考えを取り払い、師と法を信じるようにと自分に言い聞かせました。そのとき、正念が強ければ、一切のマイナス思考を追い払うことができます。20余年の修煉の道のりにおいて、病業だけでなく、邪悪による迫害もあって、私の進む一歩一歩に師父による加持と保護が欠かせませんでした。さもなければ、今日の私はいません。大法弟子になることができて、この上ない光栄です。師父、ありがとうございます! お疲れさまでした!
ここまで書いて、私は涙を流しました。それは幸せの涙であり、感謝の涙であり、大法の素晴らしさを実感した涙でもあります。正法の時期が終わろうとしている中での今日、私は大法の基準に一歩近づき、迷いの中での自分の道を悟りました。
再度、師父の慈悲なるご済度に感謝致します!