明慧文章「大部分の大法弟子の修煉状況について話します」を読んだ後の感想
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年1月6日】この文章で、私が言いたいことは、同修は主に大法弟子が真相を伝える時の状態の善し悪しについて話しており、本当の修煉状態という問題はあまり提起されていないということです。それを整理してみました。

 長年、私自身が接した同修の中で普遍的に存在している問題について、皆さんと交流したいと思います。

 私が言及している問題は、誰かに矛先を向けるものではありません。皆さんに修煉して上達してほしいだけです。 もし基準に達することができず、円満成就できなかったら、それは単なる残念だと言うことではなく、深い後悔になるのです。

 一、自分を放縦して、常人と同じく扱う

 1999年迫害が始まって以来、大法弟子の修煉状態は正式に正法時期の修煉に入っており、全世界の大法弟子は迫害に反対、衆生を救い済度するという法を正す形式に全力で取り組んでいます。しかし最も重要な修煉をあまり重視しておらず、さらに時には私たちはまだ修煉者であることを忘れてしまいました。ときには個人修煉において決めるべきことや良し悪しの基準さえなくなります。修煉者としてやらなければならない心性を修煉することすら重視しなくても良いようです。表面的に学法して、真相を伝え、発正念している限り、自分は大法弟子であると思い込んでいます。実際の結果は、学法は形だけをやっていて、自分は真相がわからないから、真相を伝えても、うまく説明できない、発正念をしても、自分が思っているのは果たして正念(神念)であるかどうかさえ自分にはわかりません。

 大法弟子みんなの修煉状態がこのようなものであれば、それでどうして円満成就できるのか? 全然円満成就の基準に達していません!

 二、学法は形だけをやって、言動は常人と同じ

 最大の問題点は、法を学び、理解しないという問題です。多くの同修は毎日学法して、しかも団体学法ですが、ほとんどは形式的に学法して、誰かが読み間違えたり、読み落としたりしていることだけに気を配っています。学法をし終わったら、あなたの家のこと、私の家のこと、この同修のこと、あの同修のこと、すべて人間の観念と問題解決の方法を使って、他人が遭遇する関の解決を手助けするのです。1999年の迫害が始まる以前のように、修煉者たちが学法の後に、法理における昇華や、法に対する新しい認識、家庭の関や病気の関に直面する場合、どうやって乗り越えるのかなど心性の問題について交流することはかなり少ないのです。

 この邪悪極まる迫害の中で、中国大陸の大法弟子たちはもちろん、いかに迫害に反対するのか、どうすれば邪悪の迫害を受けないかについて交流してきました。長年にわたり、私たちは迫害への反対の中で多くの経験を積んできました。例えば、多くの同修は、「法に基づいていれば迫害されないから、もっと法を学び、法を暗記する、発正念すれば邪悪が根絶されるから、多く発正念する」と言っています。しかし、発正念している時に何を考えているのか? 大法弟子を迫害するあの人はすぐに死ね、早く死ね。あの人の病気が早く治ってほしい。誰それを妨害するものをすべて取り除きたいなど、このようなこと以上に、おかしい考えもありますが、例を挙げないことにします。

 私は多くの同修と話し合って、「毎日『轉法輪』を読んだ後に、他の説法を読みますか?」と聞きました。多くの同修たちは一講を読むだけで精一杯ですと答えました。この同修を救援したり、あの同修を救援したりして、やることがたくさんあって、毎日一心不乱に一講を読むことさえ難しいです。私はまた、『精進要旨』を読みますかと聞きました。多くの同修たちは、「新しく届いた経文は一度か二度しか読んでいません。保管するのが難しいから、どこに置いたのか忘れてしまいました」と答えました。また、修煉の時に多くの苦を嘗め、常に同じ関を乗り越えられない同修も多くいます。例えば、病気の関を数年間乗り越えられず、本当に苦しくて腹がたつと、病院に行って薬を飲んだり、手術を受けたりしている人がいます。どうして自分を修煉者として見做さないのですか? 法を多く勉強しなさいと言ったら、同修は「毎日法を勉強しているのに、新しいものが身につかず、本が読めなくても説法を聞いているのに、それでも痛みがひどく、我慢できなくなり病院に行った」と答えました。個別のケースで、関を越えられずに病院に行っても良いのですが、法を学べず、多くのハードルを越えられないのは大問題です。しかし、法を勉強しても法を得ておらず、多くの関を越えられないとなると、それは大きな問題です。

 同修の皆さんに、真に法に基づいて昇華したい、真に理性から法を認識したいなら、心を放下して『精進要旨』を十回読むことを勧めます。師父は弟子たちに、法をしっかり学び、法を多く学び、法を理解しなさいと繰り返し教え諭しましたが、私たちはどうでしょう? 学法を形式的にやっていて、恐怖心のために新しい経文を敢えて保管せず、さまざまな言い訳をして法をきちんと学びません。その結果、関や難が現れる時、関を乗り越えられず、心は向上できず、その上、師父は自分の面倒を見てくれないから、と師父のせいにしてしまうのです。

 三、「うちに向けて探す」は全くわからない

 もう一つ普遍的な問題は、内に向け、自分を修めるという問題です。それは「内に向けて探す」はただの言葉と扱い、実際に内に向けて探すことは何か全く分かっていません。結局、内に向けて探しても外的な原因を探すしかありません。

 また、自分の人心、執着、観念に気が付かず、内に向けて探すと空虚な言葉しかありません。

 例えば、仲間に自宅に来てもらった。

 不当に禁固9年と言い渡された同修を久しぶりに訪ね、とても熱心に交流しました。

 あれこれと他人の話ばかりしているのを聞いて、私は「あなたは長年、外を走り回ってきたのだから、これからは家にいて、もっときちんと法を学び、自分を修めて、自分の心性の向上に力を入れなさい。実は、同修一人一人に師父の法身が管理していて、各修煉者の道はそれぞれ違っています。他人の難関はその人自身が法理に基づいて昇華すれば乗り越えられるし、それは各修煉者の向上の機会でもある。他人の困難を手助けするだけでは解決できない」と話しました。

 それを聞いた女性同修は、「それなら今日はちゃんと交流しましょう。私に何か執着心や人心があれば指摘してください」と言いました。それを聞いて、私は彼女を睨み、こう言いました。「修煉とは、自ら自分の心を修めること、自分の人心、執着、観念を取り除くことです。たくさんの時間を費やしてこの同修、あの同修と交流するより、むしろ師父の説法をきちんと勉強したほうが良いのです。どんな執着を持っていても、師父はあなたを啓示してくれます」彼女は私の言い方を受け入れられず、結局気まずい思いで別れました。

 他に多くの同修たちは法をよく勉強していて、多くの説法も暗記しました。交流の時は常に法を引用して、他人が持っている人心や執着にすぐに気づけますが、自分を修めないのですーー他の人がこんな心、あんな心を持っていることに気づけますが、自分は花のように、どこも完璧だと思っています。

 修練はまさに自分を修めることです。自分を見るとき、自分には人心、執着がないと思ってしまったら、何を修めるのですか? 修煉できないのではありませんか? 自分がやっていることが法に合うかどうかもわからないでしょう。だからこそ身の程知らずなことを言って、さらに知らず知らずのうちに大法を破壊することをしてしまいます。

 四、無神論から抜け出せず、ひどく害された

 実際に、内に向けて探すことができないということは、法をよく学んでいない、理解していないから、自分を探したくない、自分を探すことがわからない、つまり自分が持っている心や執着に気づけません。常人の心を抱いて行動する、常人の観念、特に人類社会が全面的に崩壊した後の道徳、現代党文化無神論の考えを持って問題を認識する人は、尚更良し悪しの分別がつきません。自分が間違ったことをしても他人ばかりを責めます。

 無神邪論をいわば、『洪吟六』を勉強した時、ほとんどどの曲の歌詞にも、無神論的進化論は邪説だと書かれています。共産主義の中国で、私達はこの邪説にひどく害されまています。「九評」が発表されてから数年経ちましたが、邪党文化の毒はまだ取り除かれておらず、一見当たり前のように、慣れてごく自然で当たり前のものでも、よく考えてみると実は無神論の毒が作用しているものです。この問題に気付いた時、私は多くの同修たち、実際に、ほとんどの同修は二十数年も法輪功を修煉していますが、なお無神論の中毒者であることがわかりました。ですからこの邪悪な迫害に直面して、軽々しく修煉をやめる書類を書いてしまいました。邪悪に修煉しないと宣言した後、再び煉功したい、健康な体が欲しいので、「厳正声明」を書いてしまいます。修煉を子供の遊びごとのように扱っています。頭上三尺に神ありを信じません。因果応報を信じないから、敢えて悪いことをしても証拠を掴まれるまで認めません。

 また、法輪功を修煉するある同修が私に神の存在を信じないと言いました。なぜ法輪功を修煉するのかと聞いたら、彼女は健康のためだと答えました。彼女は幸せそうに言いました。仕事をする時力が出せますし、肥料を2袋背負って山に登り、数エーカーの不毛の地を開拓してトウモロコシを栽培し、年に数匹の豚を飼って1万元以上で売ることができます。

 私は「法を勉強していますか」と尋ねました。彼女は「勉強しますよ。『転法輪』も暗記しています」と答えました。「暗唱して見せて」と言ったら、彼女は『転法輪』第一講を暗誦しました。彼女の暗誦を聞き、私は自分自身を探し、「無神論」の毒に気付きました。それこそ私が師父と大法を100パーセント信じることを妨げている最大の障碍であることに気づきました。このことは「張陵、七回趙昇を試す」の修煉物語を思い出させました。張陵の大弟子は自分の師父に「なぜ多くの弟子の中に、趙昇だけが円満成就できるのですか?」と尋ねました。張陵は「趙昇だけは凡心を持っていないからだ」と答えました。物語から、趙昇は自分の師父に100パーセントの信頼を寄せていることがわかりました。張天師の立場から見れば、弟子には神になりたい、凡俗から超脱し、円満成就したという願望を持っていれば、成就できるのです。あのとき私は師父の『心自ら明らか』の一文、「執着を放下すれば、 軽舟快し 人心凡俗で重ければ、洋を過ぐること難し」を思い出しました。

 五、浅はかな常人の感謝の気持ちと人の情で法を考える

 私たちは大法に対する理解が浅いため、常人のように師父に感謝し、人間の情で大法と師父を理解することは、修煉が向上できない原因です。

 同修たちに、もう一度『警言』を勉強し、または『精進要旨』を何度も繰り返し読んで理解してほしいです。そうすれば早く法理に基づいて向上できると思います。

 六、師父は私達を大切に思っていてくださることを大切にして

法輪功を修煉してここまで来たと認める人は、師父はとても大切にしています。これ以上常人の理で間違ったことをしてはいけません。

 私たちは、これまで歩んできた修煉の道を振り返り、正しく歩いている人もいれば、歪んだ道に入ってしまう人もいます。途中であきらめた人もいれば、完全に落ちてしまった人もいます。師父は私たちが困難重な道を歩んできているのを見て、ずっと私たちにチャンスを与えて、自分を修める時間を与えてくださいましたので、何度も何度も終わりのタイミングを先延ばしてくださいました。師父はただ、私たちが自分たちを修め、誤りを繰り返さず、真に法に基づいて向上できるよう願っています。

 中国本土の大法弟子は事を行なうには比較的に成熟していますが、私たちは修煉はまだまだ足りません。迫害がまだ続いているのは、邪悪が強いからではなく、私たちの人心や執着が重すぎて、この人間の皮を脱ぐことができないからなのです。 

 実は、師父はずっと前からこの迫害を終わらせようと思っていますが、修練して向上する時間を与えてくれています。しかし、周りを見渡すと、転んだら立ち直れない人、道を踏み外し、転んでしまっても反省しない人、名、利、情をいずれも放下できない人が多く、冷静で理知のある人は少ないのです。

 私は悲観論者ではなく、これが私たちのところの修練者の実際の修練状態だと考えています。もちろん、これは私個人の認識ですので、法に則っていないところがあればご指摘ください。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/9/6/448789.html)
 
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