【明慧日本2023年1月26日】2020年、私は明慧ラジオのプロジェクトに参加しました。この二年間の私の修煉体験をここで書き下ろし、師父に報告し、同修たちと交流させて頂きます。
一、『毎日ニュース』の執筆に参加
2020年11月、私は明慧ラジオのニュースグループに参加し始めました。私の仕事は、当日のニュースの執筆で、たまには文章の校閲(誤っている内容を発見して、それを正す作業)も担当しました。三大メディア(大紀元、新唐人、看中国)に参加し、シリーズコラム文章の執筆をした経験があり、数年前は大紀元で校閲編集をしていましたので、明慧ラジオでのニュース執筆と校閲は楽な仕事だと思いました。
しかし、実際は真逆でした。私が書いた文章はことごとく、完全に別物のように修正されていました。「他のメディアでも校閲をよくやってきたのに、なぜ、今書いたニュース記事をここまで修正されないといけないの?」と、あの時、私はすごくショックを受けました。私はやや感情的になり、「校閲された文章はあなたの修正でもう真っ赤になっているのですが、校閲された文章と校閲前との違いが見つかりません。一体どこなのでしょうか?」と校閲を担当する同修に言いました。同修は寛大な心で、「主に語句の構造を修正しました」と言ってくれました。
次に、校閲のオリエンテーションを受けなければなりませんでした。そのオリエンテーションは、以前、記者をやっていた時よりずっと厳しいものでした。全ての語句は主語、述語、目的語が揃わなければならず、句読点一つでも見逃さず直さないといけません。重複した言葉を使ってはならず、口語化しなければなりません。常人に向けて、「中共邪党」のような鋭どすぎて反感を招くような言葉は使ってはなりません。大法弟子同士の使う言葉を使用してはならず、党文化の言葉を使用してもいけません。精錬されたプロの言葉を使う必要があり、無駄な言葉を使ってはなりません...。これらのようなルールは、他のメディアでは注意する必要がありませんでした。私が校正終了した文章がさらなる校閲で真っ赤になった時、さまざまな執着心が現れました。一時、とてもプレッシャーを感じ、自ら苦労を求めているかのように感じました。
そのように葛藤している時、私は師父の説法『明慧ネット十周年法会での説法』を読むと、「この窓口を必ずより良く運営し、さらに良く行なうべきです。同時に個人の修煉状態を緩めてはなりません。なぜなら、自分自身がしっかり行ない、良く修めることができて、はじめて明慧はさらに良くなり、さらに素晴らしくなるからです」[1]と説かれていました。こんな逆境に陥ってしまったのは、修煉に問題があったと、私は気づきました。明慧ネットに参加する大法弟子は、他のメディアとは異なり、もっと厳しく要求されるわけです。自身の修煉に工夫し、自身の次元を高めてこそ、ここ明慧ネットで衆生を救い済度する責任を果たすことができるのです。
今の校閲の能力はまだ不足だと思い、私は校閲の仕事を辞退し、新聞執筆に専念しました。今まで得たものを肩からおろし、新聞執筆をゼロから勉強し始めました。正しく常に使用する語句と言葉をノートに書き、これらを暗記しました。新聞を書き終えたら、私はまず自己チェックをしました。こうして徐々に、私は真相を伝えるこれらの語句に慣れるようになり、上手く使えるようになりました。自ら苦労を求めているように思わなくなり、代わりに、明慧ラジオのプロジェクトに参加して衆生を救い済度できるのは、私だけのギフトだと思うようになりました。
新聞執筆を始めたばかりの頃、私は毎日5時間もかけていました。しかし、観念を変えてから、毎日2時間だけで十分でした。校閲の仕事を任された時も、私は難しく感じることなく、全てが順調になりました。
実は、ニュースグループに参加してからの2年弱の間、確かに途中でグループを退出した3名の同修を見てきました。自分の文章を変更されたくない気持ちを理由に、心とメンツが保てないことを理由に、または病気の業力を理由にして、3人とも自ら退出を選びました。
建前の原因がなんであろうと、このグループで法を実証できる心性の要求に満たしていないことが、退出の本当の原因だと私は思います。自分が迷っていた時に、他ではなく大法を思い浮かべることができるからこそ、逆境を乗り越えることができました。そう考えると、私はとても幸せに感じました。
二、番組の校閲で自らを修める
交流文章の音源の校閲は、難しくなさそうに見えますが、決して低水準の仕事ではありません。心性に問題がある場合、もしくは状態がよくない場合は、音源にあるはずの問題を見逃してしまいます。そのため、私は音源の校閲をする時、他のすべての仕事から離れ、一心不乱に音源を聞くようにしていました。特に、同修が師父の経文を読んでいる時、身体中の細胞が集中し、何度も繰り返して聴くようにして、同修の朗読が正しいことを確認してきました。
嬉しいことに、毎日、私が校閲する音源は同修たちが法の中における悟りであり、その一つ一つが内に向けて修煉し、自分を探すための私の鑑でした。特に、自分の修煉の中で間違った状態が現れるたび、校閲する音源で自分と全く同じ状態を語る内容が必ずありました。
例を挙げましょう。某年7月、私は少しの間、発正念をする時に雑念が多くあり、しばしば寝てしまい、しかも深く寝てしまう状態が続いていました。静功を煉る時はさらに深く寝てしまっていました。同修である姉と電話を繋げて一緒に静功を煉り、注意し合ってみましたが、最初の頃だけ改善できても、しばらく経ってからはまたダメになりました。
この状態はとても辛かったので、私は、問題がどこにあったのかを教えてくださいと、師父の手引きを求めました。その後まもなく、「ある日の神韻の宣伝ポスティングをする時に、あなたは曲がった歩き姿をしていて、大法弟子のイメージを損ねてしまっていますよ」と、同修からの電話がありました。同修の言葉は私の心を痛めました。
その後、ある年寄りの同修と一緒にポスティングをする時、私は同修に「私の歩く姿は曲がっていますか?」と聞きました。同修は「曲がっているよ」と答えました。私は「どの方向に曲がっていますか?」と聞くと、同修は「左の方に曲がっている」と答えました。そのため、私は体を右に修正するように気をつけていました。
そんなある日、私は姉と一緒に街を歩く時に、私は姉に「私の歩く姿は曲がっているかな?」と聞きました。姉は「曲がっているよ」と答えました。私は「どの方向に曲がっているの?」と聞くと、姉は「右の方に曲がっている」と答えました。
これには詰まりました。歩く姿を正そうとしても、もう仕方がありませんでした。きっと、私の心が曲がっているのに違いありません。
師父が説かれた「心が正しくないとはどういうことでしょうか? それはいつも煉功者としての自覚が欠けていることです」[2]の言葉を思い出しました。私は、私の心が正しくないから、歩く姿が曲がっていると考えました。そのため、私は内に向けて探し、闘争心、顕示心、利益にこだわる心、名利心、安逸を求める心など、多くの執着心を探し出しました。しかし、曲がっている歩く姿は根本的な変化がありませんでした。
「自分の歩く姿を正したい」という心をもって内に向けて探すこと自体、法にそぐわない行為でした。その後、私の身体は変形してしまい、発正念の時に腰がS字の形になってしまいました。さらにその後、右側の身体が萎縮し始め、私は怖くなり、身体に障害が残るのかと考え始めました。その時私は「正しくない心は、本当に人を奇怪に、醜くすることになる」ということに気づきました。
ある時、交流の文章を校閲すると、私は自分と同じ状態を語る内容を見つけました。それは2022年7月24日に発表された『情に動かされ口を修めないことが招いたトラブル』というタイトルの交流文章でした。その文章の中には「父が帰っていった後、私は軽く噛むだけで、歯が変な音を出し、気分がとても悪かったのです。これは間違ったことを話してしまったことに違いないと、私は思いました。その後、腰が左の方に傾き、猫背になり、首も曲がってしまい、身体があっという間に変わってしまいました。まるで背を曲げる老人のように見えてしまい、私は鏡を見る事すら怖くなりました」という一節がありました。
どうやら、私の心配は考え過ぎではありません。ほぼ同じ状態にある同修に遭遇しました。あの時、長期休暇で実家に帰って来た娘は、私の事を「歩く時に身体が前傾している」「両肩の高さが違う」と言いました。姉も、私の事を「腰が変形しているし、片方が広くて、もう片方が狭いのよ」と話しました。私は、私を障害者にするという旧勢力の按排は、そんなに難しいことではなくなったのかと、びっくりしました。「口を修めないことが招いたトラブル」という同修が書いた文章にならい、私も口を修めなくなっているのではないかと自分を探していました。しかし、これも違う気がしました。
そこで私は、「修煉の道において、手本などがなく、ただ実修するのみ」だと意識し始めました。私は続けて内に向けて探し、ある日の出来事を思い出しました。それは静功を煉る時、師父の声が聞こえて、その内容は「なんと強い名利心でしょう!」という『轉法輪』の中の一文でした。
私はハッと悟りました。これは「名利情」の中の「名」でした。名利を求める心が私を大変な目に遭わせたのです。私はいつも、常人の世界における自分のイメージを維持しようとしていました。問題に直面する時、最初に考えたのは「自分のイメージに影響を及ぼすかどうか」でした。矛盾が現れる時、内面の動揺が激しいですが、表面上、平静に保とうとしていました。自分の「名」を守ろうとする心は、法を守ろうとする心より強かったのです。大法の仕事を選ぶ時さえ、私は「名」を選択基準とし、同修に羨まれる仕事であるかどうかを見ていました。
私はずっと「名」に陥り、「名」への追求を取り除くことができませんでした。私は本当の大法弟子ではない、修煉に入ることすらできなかったと思うと、旧勢力が私に手を下そうとするほど、この問題の深刻さに私は気付きました。
私は師父に「師父、私は間違いました。大きな間違いをしました」と申し上げました。20年以上の修煉で、数えきれない困難を経験し、何度も師父のお守りに恵まれましたが、私は自分を偉く見過ぎて、師父の偉大さと大法の偉大さを常に考えることができませんでした。自己満足に耽る私は、大法を冒涜し、正法修煉を冒涜し、師父の苦度を裏切ってしまいました。慈悲なる偉大な師父に対して、深く悔い改めます。
同時に、私は正念を発し、私に対する旧勢力の邪悪な按排を否定しました。欲しいのは「大法弟子」という称号だけです。これは神々も羨しがる称号なので、常人の世界のどんな「名」がそれに匹敵できるというのですか?! 「名」を求める心を見極め、「名」に対する執着心を見つけ出し、私は心身ともにすっきりしました。
知らないうちに、旧勢力の按排に危うく付け入られそうになりましたが、師父はそれを逆手に取り、私に内に向けて探させ、正しく帰す事ができました。私は鏡を見ながら煉功しなくなり、二度と怖くなることはなく、身体も迅速に回復しました。私はようやく、この一難を乗り越えました!
師父のお導きにより、師父が私を大法弟子にして下さり、宇宙の正法の際に私に法を正すことを手伝わせて頂いたこと、明慧ラジオのプロジェクトで修煉できる機縁に、私はこの上ない感謝を心から申し上げます。
今、ラジオ番組の校閲をする時、私はただ任務を果たすためだけではなく、自分の担当する部分で遅延がないように、そして、同修たちにできるだけ早く明慧ネットのラジオ番組を聴取してもらうために、校閲をするようになりました。当番ではない時間帯でも、文章の録音が出来上がると、私はすぐに真摯に校閲をするようになりました。迷いの中にいる同修たちに、私のように悟りを開き心性を向上させ、恩恵を受けてほしいと希望します。
また、月一回のラジオ局主催の誤字試験にも真剣に向き合いました。このような試験は私へのギフトであり、絶えることなく私に勉強をさせてくれました。明慧ラジオという浄土は、修煉の道において、欠けてはいけないガソリンスタンドであり、充電スタンドでもあり、チェックポイントでもありました。私ができるのは最善ではなく、より良い向上があるだけです。
法がこの世を正すことに移行しつつあり、私も二十年以上修煉してきました。これからの道のりがどれほど長くても、これからの時間がどれほど長くても、修煉の中には精進あるのみで、決して気を緩めたりしません。私は、初志貫徹ができる弟子であり続け、師父について家に戻っていきます。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』