大慶市の朱秀敏さん 何度も迫害された末死亡(一)
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 【明慧日本2023年2月3日】(黒龍江省=明慧記者)黒龍江省大慶市の法輪功学習者(以下、学習者)・朱秀敏さんは、法輪功への信念を貫いたとして、中国共産党(以下、中共)に迫害され、5回も不当に連行され、懲役7年の実刑判決を宣告された。様々な拷問を受けた51歳の朱さんはついに心身の限界となり、2022年7月に亡くなった。5歳の娘は永遠に母を失った。

 朱さんは、1998年10月に『轉法輪』を読んだ後、「これこそ私がずっと探していたものです」と感じたという。以来、朱さんは真・善・忍の基準に従って良い人を目指し、今までの短気な性格が穏やかになった。

 一、何度も不当に連行される

 2000年3月18日、朱さんは法輪功の無実を訴えるため列車で北京に行ったが、天安門広場で警官により連行され、地元に連れ戻された。その後、朱さんは大慶市薩爾図留置場で20日間拘束され、その間に、留置場と朱さんの勤務先は食事代や旅費として、家族に3600元を要求した。

 2000年4月29日、朱さんは法輪大法の潔白を証明するために再び北京に行き、天安門城楼で連行された後、大慶市に戻され15日間拘束された。そして朱さんは法輪功を放棄する保証書を書かないとして、さらに2カ月間拘禁され、3400元を強要された。

 2000年6月18日、朱さんは大慶市譲胡路区鉄人広場で集団煉功に参加したとして、大慶市留置場に連行された。当時、10平方メートル足らずの独房に30数人が収容され、蒸し暑い日、室内の換気も悪いため、朱さんは身体に異常が現れたため解放された。

 二、迫害の実態を伝える電波ジャックに参加 懲役7年を宣告される

 人々が中共の嘘に騙されないように、法輪功迫害の実態を理解するために、朱さんは法輪功迫害の実態を伝える電波ジャックに参加した。

 2002年5月8日、朱さん(当時30歳)は、牡丹江市駅で同市陽明区公安支局の警官らに連行され、車に押し込まれた後、頭を座席の下に押し込まれたため、窒息するところだった。

 陽明区公安支局で、朱さんは鉄の椅子に手錠をかけられ、「お前を捕まえるために俺たちは半月以上あまり睡眠を取れなかった。信じるか? お前を裸にするぞ」と支局長に脅された。続いて、他の警官は疲れるまで鞭で朱さんの足を打ち続け、朱さんは気絶しそうになった。疲れ果てた警官はまた、テーブルの上にある5、6本のわさびオイルの瓶を指し、朱さんに「俺たちはお前らをやっつけた多くの経験をまとめた、中にわさびオイルと『宇宙キャップ』(拷問の一種)も含まれる」と言った後、すぐに雑巾にオイルをつけて、朱さんの鼻を覆い、ビニール袋を二重に被せて窒息状態にした。

酷刑演示:塑料袋套头

拷問の再現:ビニール袋を頭に被せて窒息状態にする

 2002年10月、朱さんは牡丹江市陽明区裁判所から懲役7年の実刑判決を宣告され、2003年1月、悪名高い黒龍江省女子刑務所に拘禁された。

 三、刑務所で様々な拷問を受けた

 刑務所の訓練隊で、朱さんは毎朝4時に起きて教室に座るように強制され、刑務所の規則を暗記させられ、法輪功を中傷するビデオを見せられた。朱さんはそれを拒否したため、よく夜中の2時まで立たされていた。

 1カ月後、朱さんは訓練隊から第5監区4隊に移され、4人の受刑者に昼夜交代で監視され、殴られ罵られることが日常茶飯事となった。また、罪名と名札がついた服の着用を強制され、毎晩、警官に名前を呼ばれたら、報告した後に一人ずつ、跪かなければならず、常に人格を否定される屈辱を受けていた。

 学習者が警官の要求に協力しないと、買い物や面会、電話をすることも許されず、警官はまた学習者と家族の仲を悪くさせようとしていた。朱さんの家族は、数百キロの距離を移動して刑務所にたどり着いて面会を求めたが、刑務所側は朱さんが面会したくないと言っていると、嘘をついたため、家族は怒り「悲しすぎて、もう二度と会いに来ない」と泣きながら帰ったことがある。

 刑務所は莫大な利益を得るために、朱さんなどの学習者に労働(衣服の製作)をさせた。毎朝5時に出勤し、夜10時あるいは夜中の12時に終わるが、翌朝の2時に終わるときもある。

 2003年11月26日、警官の指示を受けた受刑者は朱さんの服を剥ぎ取り、肌着だけにして刑務所の外に引きずり出し、寒い北風に当てて凍えさせた。警官らはマスク、手袋、冬の服を2枚重ね着していても寒さに震えていたが、朱さんは午後からずっと凍えさせられ、廊下に連れ戻されたあと、引き続き小さな腰掛けに座らされた。

 2003年11月29日の朝、警官の楊子峰は気が狂ったように、ゴムホースを持って、朱さんと他の学習者を叩いたり蹴ったりしながら、外に引きずり出した。

 朱さんを貶めるため、警官は受刑者に指示して、朱さんの頭髪を変な髪型にカットさせた。それから竹の棒を使って、朱さんの手指を一本ずつ叩いた。朱さんの手は変形し、指の甲が潰れ、指が曲がらないほど腫れ上がり、刺されるような激痛だった。

 7年にわたる冤罪を経た朱さんは、肉体的にも精神的にも大きな損傷を受け、 2009年5月9日に帰宅した。家族は朱さんの反応が鈍くなり、体も弱くなったと話した。朱さんは「まさか生きて帰って来ることができるとは思わなかった!」と話したという。

 続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/1/18/455324.html)
 
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