「精進したければ、朝の煉功から始めよう」について語る
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2023年4月17日】「精進したければ、朝の煉功から始めよう」は、同修が書いた交流文章で、自分の心に響くものがありました。今日、高い基準で自分に要求することを促す意味で、私もこのテーマで交流文章を書きます。

 朝の煉功がきちんとできなかったり、修煉が精進しなかったりするのも執着であり、ここ数年私は、なかなか抜け出すことができません。

 ある日、明慧ラジオの交流文章を聞いていたとき、煉功のために早起きしたくないといろいろな言い訳を作った自分の漏れがどんどん大きくなっていることに、初めて気づきました。これは修煉を始めてからずっとできていない根本的な問題でもあります。師父は私たちに「事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」[1]と教えられましたが、私が着実に修煉できていなかったのはまさに朝の煉功でした。多くの場合、私は早起きができず、常人が普通に生活しているようでした。

 法理から、大法弟子が朝の煉功に参加する最も重要な目的の一つは、怠惰と寝坊する心を取り除くことだと理解しました。師父の説法を学んで、「眠い」は魔ではありませんが、魔物として作用することがあると分かりました。私は魔に操られてはいけないと思いました。そして長年にわたる自分の修煉を振り返って、怠惰、寝気、のんびり、自己満足、利益心、射幸心、隠蔽逃避心理などなど、多くの漏れが見つかりました。時には、自分はまだ修煉者なのだろうかと何度も思ったことがあります。

 常人の中では「一日の計は朝にあり」とよく言われます。大法の真の修煉者である私は、常人の生活に混同してはならず、大法弟子の毎日は非常に貴重であり、師父が要求された三つのことをしっかりと行ってこそ、一日を価値ある有意義なものにする唯一の方法であると悟りました。法理は理解できましたが、もし自分が実行できなければ、それは修煉になるのでしょうか。私は、「学法して精進したいなら、まず朝の煉功から始めよう」と心に決めたのです。

 そうは言っても、2018年に娘が大学に進学してから、私の時間は比較的に余裕ができて、自由になりました。知らず知らずのうちに怠ける心と寝坊する心が生まれ、自己の緩みが日増しに助長することにつれて、自分は「時間があれば多く煉功し、時間がなければ少なく煉功し、好きな時間に煉功すればいい。朝1時間の静功と、昼あるいは夜に1時間の動功をクリアして、それから毎日の学法もできて、時間があれば外に出て人を救うことができれば、それで十分だ」と、成り行き任せの気持ちで言い訳を作りました。

 法を学ぶ過程で、「師父の説法は低いものから高いものまで、すべては弟子の前に用意されており、大法弟子の修煉の精進する度合いに応じて、精進すればするほど高くまで修煉ができ、法から得られるものも多く、大法と同化する部分も多くなる」と悟りました。自分への要求が低くなるにつれ、次第に朝の1時間の煉功すらできなくなり、朝の発正念もきちんとできなくなり、眠くて起きられないため、漏れもどんどん大きくなっていきました。

 この面において漏れがあるということは心ではわかっていたのですが、早起きして煉功をするという決意が難しく、「眠い」という妨害からなかなか抜け出せなかったのです。この関は、大きな山が私を圧迫しているようなものです。朝起きられずに寝ていると、何度も夢を見ました。自分はとても汚い泥の水たまりやトイレの中にいる夢、時には肥溜めに落ちた夢、時には便器の中で寝ている夢......。これは師父が私を悟らせて下さっているのだとわかっていましたが、やはり成り行き任せの気持ちで、何度も自分の思いを赦し、他の時間に煉功を補う方法で何度も自分を許しました。このように、一日一日、一年一年、時間が過ぎていきました。心では落ち着かない思いもありますが、「眠い」という妨害を取り除く決心がつかないままでした。これは、私が交流文章を書く自信を持てない大きな理由です。

 「意志堅からざれば 関は山に似て 如何に凡を出づるか」[2]という師父の説法が、何度も頭に浮かんできました。

 法理から、修煉自身が難しいのではなく、執着心を放下ができないから難しいと感じるのだと、自分は理解しました。今の私の修煉を言えば、修煉への意志が強くなく、金剛不壊の境地に達しておらず、「眠い」という物質的な層を突破できていないので、さまざまな悪い思想に邪魔され、足を引っ張られています。今こそ、あらゆる邪魔を取り除き、正念を持ち続ける時です! 一つの考え一つの念、一言一行が法に則って、法が正される時期の大法弟子の称号に相応しい真の大法弟子となり、自分を真の大法修煉者と見なさなければなりません。

 自分を本当の大法弟子とみなし、心の弦をしっかりと引き締め、常に高い基準で自分に要求すれば、早起きして煉功することが苦にならなくなりました。この確固たる一念がある限り、眠気は存在しなくなりました。早朝、人が熟睡している時間に、静かに、心地よい美しい煉功の音楽が流れ、両腕が輪を抱く動作を行う時、本当にこの人間に美妙と素晴らしさを体験し、エネルギーに包まれ、自分が昇華されたように感じました。一日や二日間くらいなら精進できますが、実際の修煉で十年一日のごとしのように、根気よく続けることは難しいことです。日頃、朝の煉功を普通に行うことができれば、これこそが、修煉者の佛法修煉においての勇猛邁進の状態です。

 以上は、私の現在の修煉状態についての僅かな認識で、自分の修煉状態の変化の始まりでもあります。私にとって警鐘となる交流文章を書いた同修に感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「断 元曲」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/4/12/458620.html)
 
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