文/中国の大法弟子
【明慧日本2023年7月8日】個人修煉の初期には、多くの古い学習者たちは大法の指導のもと、堅定した心で一つひとつの身体の病業の関門を乗り越えることができました。当時の病業は、単純に業を消去し心性を高めるものであり、師父が学習者に対して消業と向上を促すために按排したものでした。そのことを病気だと心に留めなければ、数日で乗り越えられました。しかし、個人修煉が法を正す時期に移行すると、病業の関門は当初の個人修煉のものとは変化が生じました。なぜなら、この時に表れる身体の病業、特に重い病業の状態は、学習者の最後の業力を取り除き、更にレベルを向上させるだけでなく、旧勢力の妨害も加わっているからです。
ある同修は「私は旧勢力の按排も、難関というものも認めません。この魔難は私の修煉とは関係ありません。正念正行をすれば、その存在を無視できますし、魔難の中で内に向かって探す必要もありません。まるで何もなかったかのように、食べるべきものを食べ、飲むべきものを飲むだけです」と言いました。この言葉はよく法理を悟ったように聞こえますが、修煉とは関係なく、内に向かって探す必要はないと言うのは完全に間違っていると思います。旧勢力は学習者のまだ残っている執着の隙を突き、師父が学習者に按排した修煉の道に魔難を強制的に押し付け、学習者に突然常人のような重い病状を引き起こさせます。そして場合によっては、命までも失う学習者もいます。
師父はこのようにおっしゃいました。「大法弟子は修煉を始めたその日から、あなたの人生は按排し直されたのです。つまり、あなたのこの人生は修煉者の人生となり、いかなることも偶然ではなくなり、偶然なことが現れることもありません。人生の道のりにあるすべては、あなたの向上と修煉と直接的な関係があります」[1]
私たちは師父が按排した修煉の道を歩んでいますが、旧勢力はその按排に強制的に介入したに過ぎません。私たちが認めないのは、彼らが強制的に押し付けた部分です。しかし、私たちは師父が按排された修煉の部分を進めなければなりません。魔難の中で内に向かって探し、執着を取り除くことは、旧勢力の按排を認めることではなく、師父が按排した修煉の道で大法の要求に従って自己を正すことです。それは魔難の中で、正念正行で最初に行うべきことです。ですから、なかなか乗り越えられない病業がある場合、修煉中に向上すべきところが必ず私たちにあると見るべきです。それは私たちが見落としているか、完全に意識していない小さな執着かもしれません。
重い病業の状態が突然現れたとき、法理が明確に認識できない場合、個人修煉の段階の一般的な業の消去と同じように見なして、どうせ良いことだ、必ず過ぎ去るのだからあまり深刻に考える必要はないと思います。
このような受け身的な考えは、旧勢力を認めることで、病気の期間を長びかせることになります。時間がたてば、学習者は旧勢力が押しつけた迫害であること、受動的に耐えてはいけないことを悟るかもしれませんが、自分の漏れがどこにあるのか見つからないため、心性は魔難の中で向上することができません。また、学法や煉功や発正念を強化していなければ、毎日病人のようにベッドに横たわり、家族が食べ物や水を持ってきてくれるのを待っています。この過程で、一部の学習者は心を動かされ、苦しみを和らげるために理学療法、マッサージ、健康法といった人間的な方法を使うようになります。実際、その正念はすでに不十分であり、病業の虚像は無力感の中で依然と引きずり続けています。 また、しっかりした正念の考えを持っていないため、親族の情の妨害も相まって、修煉していない家族によって病院に送られ、医者に任せて各種の医療処置を受けます。
このような場合、渦中の弟子や彼を助けにきた同修は、たいてい師父に難儀を乗り越えられるようにご加護を求めたり、業力を減らして難儀の難しさを下げてくれるようにとお願いします。
試練(難儀)の中の大法弟子には他の道はなく、私たちは強力な正念を持って試練に立ち向かうしかないと私は悟りました。もちろん、どのように正念正行を実現するかについては、これまでの明慧ネットでの同修との交流の中で、それらの奇跡や、正念正行の物語はたくさんあります。ここでは長くなるため省略します。
以上は私が最近学法の後に思い、考えたことを書き、同修との交流のために共有しました。もし誤った点があれば、慈悲深い同修のご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』