文/中国河北省の大法弟子
【明慧日本2023年7月9日】私は26年間修煉した大法弟子です。修煉の過程には、喜びも苦しみもあり、関門もあればつまづきもあり、向上することもありました。大法の修煉において、小さなことはなく、偶然の出来事もないことを知っています。すべての出来事は、弟子の執着心に向かってくるものです。
以下、最近乗り越えた関門について、同修のみなさんと共有したいと思います。
師父は次のように説かれました。「伝え終えてから、師はさらに『君はたくさんの執着心を捨てなければならない。そのために行脚に出かけなさい』と彼に言います。行脚は非常に辛いことで、社会の中を放浪し、物乞いをしながら、いろいろな人に出会って、嘲られたり、罵られたり、いじめられたりして、どんなことにも遭遇する可能性があります。彼は自分が煉功者であることを常に心掛け、人との関係を正しく処理し、心性を守り、絶えず心性を向上させ、常人のいろいろな利益の誘惑にも心が動じません。長い歳月を経て、彼は行脚から帰って来ます。そこで師は言うのです。『君はすでに得道し、圓満になった。もう何もないので帰って後片付けをし、出発する用意をしなさい。何か用事が残っているなら、常人の中の用事を済ませておきなさい』。このようにして長い年月が過ぎ去ってから、副意識が帰って来ます。彼が帰って来ると、こっちの主元神も出定して、主意識は目が覚めるのです」[1]
『轉法輪』を何度も読んできましたが、ここ数年、いつからか、毎回この部分の法を読むと、頭の中に奇妙な考えが浮かんできます。「もし私だったら、『帰って後片付けをし、出発する用意をしなさい』[1]を選ぶ」という考えでした。それはいかに素晴らしいことでしょうか! 私はこの人間社会の中であまりにも苦しみを味わっています。この考えは毎回一瞬だけ現れ、どれくらいの間、私を伴ってきたのか私は気に留めたこともありませんでした。一度、学法グループで法を学んでいる時に、この部分を読むと、私は無意識に「私はそういう人になりたい」と言ってしまいました。皆は特に何も言わず、おそらく私の独り言を理解できていなかったかもしれません。
2021年の春、ある晩、夕食後につれあいと一緒に住んでいる団地内を散歩していました。歩いている最中、道路が少し凸凹していましたが、誰にとっても脅威になるようなものではありませんでした。しかし、ほぼ平らな道路で、私はつまづいて大きく転んでしまいました! まるで後ろから強く押されたかのように、私は即座に地面に向かって打ち付けられました。今回の転倒は非常に激しく、私をほとんど投げ飛ばしてしまいました。耳もとでつれあいが私を呼ぶ声が聞こえましたが、私は道路に伏せて身動きが取れませんでした。つれあいは言いました。「120(救急車)を呼ぼう!」その時、私は痛みで言葉が出ませんでした。ここは職場の寮がある場所でしたので、私が心の中で思ったのは「他の人に見られてはならない、絶対に大法に泥を塗ってはならない!」ということでした。その時、通りかかる人もいましたし、立ち止まって見ている人もいました。私は思いました「絶対に家に帰らなくてはいけない、ここで倒れているわけにはいかない」と。しかし、痛みで本当に動くことができず、息をするだけでも胸が裂けるような痛みが走りました。鼻は平たくなりそうでしたし、歯で唇に穴を開けてしまいました。また、顔や四肢は傷だらけでした。私はつれあいに合図して私の体をおこして、家に連れて帰るように頼みました。
2020年から、私はなぜかよくつまづいて転んでしまいます。理由もなく、歩いている最中に突然つまづいて転ぶことがよくありました。しかも、非常に激しく転倒し、まるで私を死なせたいかのような感じでした。学法グループに行き、学法に参加する際も、顔や身体に怪我をしていることがよくありました。同修が私に「どうしたの?」と尋ねると私は「つまづいて転んだ」と答えてそれで終わりでした。深く考えることもしませんでした。
私はつれあいに支えられながら、腰を曲げ、身体を引きずって困難ながらも家に帰りました。家に着いた私はベッドの端に座り、横にはなれませんでした。全身の力を振り絞りながら、激しい痛みに耐えながら、か細い声でつれあいに言いました。「私の代わりに師父の法像の前に行って、師父に救いを求めてください!」
しばらくして、私の状態は少し良くなりました。ベッドの上で苦しみながらも、脚を組んで座禅を始めました。40分経った頃、発正念の時間が近づいてきたので、私は脚を下ろしました。お腹を軽く押してみると、痛みは消え、何の不快感もありませんでした! 不思議なことが起こったのです。驚いたつれあいは言いました。「素晴らしい、素晴らしい!」
この出来事により、私には「必ず大きな漏れがあるはずだ」と察知しました。
後日、私が学法の拠点に行くと、一人の年配の同修が私の様子を見て、「どうしたの?」と尋ねました。私は答えました。「またつまづいたんです」と。するとその同修は言いました。「なんでいつもつまづくの?」そうだ、なぜ私はいつもつまづくのだろう? 法を学び、三つのこともやっているのに、どこに漏れがあるのだろうか? 今回の学法グループで、「もう何もないので帰って後片付けをし、出発する用意をしなさい」[1]という部分を読みました。そうだ! 私は執着心を見つけました。私はまさに後片付けをし、出発したい、人間世界には残りたくないと思っていました。実際師父がこの部分で説かれたのは副元神の修煉であり、副元神が功を得るのです。しかし、私たちは大法を修煉しており、大道で形のない修煉をしています! 私たちは自分自身がはっきり分かっていながら修煉し、自分自身に功を得させます。そして、私たちは大法の弟子であり、師父の弟子であり、人を救う使命を背負っています。私たちは師父に按排された道を歩むしかありません。副元神の意志に従っていくことはできません! 私の頭にこのような不正な考えがあり、それが数年も続いていても、警戒心を起こさせず、それを排除することができなかったために、それが私の空間に存在することができたのです!
それからもう一つの問題も見えてきました。それは私は普段、法を学ぶ時、深く心に留めず、形式的に留まっていたこと、つまり法を学んでいたのに、法を得ていないということでした。旧勢力は私の弱みをつかんで、「あなたは去りたいんでしょう? いいですよ、去らせてあげる!」と言って、私を迫害し続け、私を死に追いやろうとしました。もし師父が見守ってくださらなかったら、結果は考えればわかることです。師父は何度も私の代わりに苦難に耐えてくださいました。
このつまづきが、ついに私を目覚めさせました! 今になってようやく悟りました。しかし、長い間間違った道を歩んできたため、自ら修煉を難しくしてしまいました。慈悲深い師父は、私という愚かな弟子を見捨てず、何度も何度も救ってくださいました。師父は慈悲深く、偉大です! 佛恩は広々としたものです! それ以来、私はもうつまづくことはありませんでした。
これは私がこの関門を通過するまでの全過程です。この出来事を通じて、修煉の厳粛さに気付きました。それは不二法門の問題にまで関わるものです。法を正す時期の大法弟子であれば、師父の按排に従わなければ、旧勢力が按排した道を歩くことになり、それはあなたを容赦なく迫害します! この教訓は深刻なもので、命をかけて手に入れた教訓です。長い間悟ることができず、つまり悟性の低さによって、師父は何度も何度も私の代わりに耐え、私のために心配してくださいました。同時に、自分の悟性の低さに対しても自責の念を感じました。ここまで書いた時、言葉では表現しきれませんが、身体の中で何かの良くないものが解体されたと感じました。同時に、大法を修煉する中でのその荘厳さと殊勝さを感じました。修煉の中で常に師父が弟子を見守っていらっしゃることを感じました。佛恩は広々としたものです!
私は師父の按排された道のみを歩み、他の悪い思想や外部からの妨害を適宜排除し、自分の思想の中にあるすべての不正な念を見逃さないようにし、形式に流されることなく、真剣に法を学び、正々堂々と大法の中で修煉します! 他の按排は要りません。三つのことをしっかり行い、誓約を果たし、使命を全うし、師父について帰ります。
次元に限りがあり、もし法に符合してない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
(編集責任者:林一平)