嫉妬心と怨恨心の除去について
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本語2023年7月29日】『共産主義の最終目的』という本には次のように述べられています。「共産主義の本質とは邪霊であり、恨みと宇宙の底層空間に存在するさまざまな腐敗物質から構成される。恨みに駆り立てられた共産主義は1億人以上を虐殺し、数千年にわたる輝かしい文明を破壊した。又、共産主義は恣意的に人間の道徳を腐敗させ、人々を神から遠ざけ、最終的には人類を破滅させることを目的としている」

 「恨み」の物質は私の空間場に頻繁に現れます。ある時、私は全精力を集中して、「恨み」の物質を取り除いた時、驚くべきことに、全ての自分の悪い観念、執着心と欲望がある程度に達した時、「恨み」の物質が生じることを発見しました。そして、空間場に、客観的な状況にねらいをつけて、あおり立て、唆していざこざを起こさせ、アンバランスを作り出す魔が存在することを発見しました。この魔は、私のすでに形成した悪い観念や、まだ取り除いていない執着心や欲望を利用して、「恨み」の物質を作り出し、私に押しつけます。主に嫉妬心や怨恨心という形で現れます。 私の修煉のレベルが限られているため、多くの場合、主意識がこれらの「恨み」の物質を適時に発見して排斥することができません。

 嫉妬心を取り除く

 嫉妬心は私にとって非常に頑固な心です。嫉妬心から簡単に恨みが生じます。私が修煉をしてきた2年半の間、それを排除することに常に重点を置いてきました。例えば、いつも同修と修煉体験の交流の時、その嫉妬心を皆に暴露し、家族と話し合い、比較的党文化の影響を受けていない普通社会の人々から啓示を得るために努力しました。また、西洋人の同修と交流も行いました。嫉妬心を排除しようと積極的に努力する中で、師父も異なる視点から悟りを与えてくださいました。

 仇のように悪を憎む心と間違ったことは絶対に見過ごせないという心は嫉妬心が生じる主な原因です。主に時々一部の人の利己的な悪い習慣が目障りになると現れます。例えば、見せびらかし、狡猾さ、ずる賢い、お世辞、策を弄することなど、特に私の個人的な利益に触れる場合、彼らを包容できず、彼らにラベルを貼り付けて偏見を持ってしまいます。「この人は利己的な人間であり、彼には良いものを持つことに値しない」。また、私の競争心により、引き起こすこともあります。特に私の基準に達していない品行を持つ人、また、他人が、私が難しくないと思っていることを通じて利益を得た場合、納得せず負けおしみの心が生じ、それによって嫉妬心が現れます。

 私には一つの間違った観念があります。いつも人の現時点での能力、努力と汗、道徳の品行が人の良い発展を決定します。能力がなく、努力もせず、人柄もよくなく、利己的で日和見主義で狡猾であれば、その人は良い発展は得られません。

 師父はこのようにおっしゃいました。「実は、あなたがいくら聡明で、ずる賢くても、結果は同じです。たとえば、とても不器用な人がいて、あなたはこの人が非常に愚かで、非常に単純だと思い、一方非常にずる賢い人がいるとします。結局、人生の道をどのように歩んでも結果は同じです。決してその人がずる賢いから、なんらかの変化が生じることもなければ、その人が単純だから、変化が起きることもありません。ずる賢くなれば、自分を悪くするだけです。業を造る中で下へ落ちてしまい、自分と周りの環境が緊張した関係になれば、自分の心は更に複雑になります。複雑になった考えは自分をさらに悪くするだけです」[1]

 師父の教えは私の心のしこりを解き放ちました。私は嫉妬心の中に不公平やアンバランスを感じる強い心理が隠れていることに気づきました。例えば、他の人がずる賢く、投機的な手段で良い結果を得たとき、私はそれを受け入れられず、心のバランスが崩れます。これは師を信じない、法を信じない無神論的な思考です。宇宙の理は永遠に公平です。表面的には確かに不公平で、アンバランスなように見えるので、私はそのように受け止めてしまいますが、その時完全に自分は常人の考えになっています。

 これは私がまた、名誉や利益に対して執着を持っていることを映しており、また、それによって何が良い発展であり、何が悪い発展であるかを判断してしまいます。修煉者は世間の得と失に執着すべきではありません。一方、私は他人の欠点をよく見つけ、否定的な思考に陥ることがあります。例えば、他人のどこが自己中心的で、どこがずる賢いなど、これらを受け入れることは難しいです。その時、まず自分を内に向けて探すべきですが、私はしばしば寛容心を持たず、他人の執着心に執着し、自らを窮地に陥れてしまいます。

 私の嫉妬心にはもう一つ強い表現があります。それは焦りや取り残されることに対する恐怖、自分が人より劣ることに対する負けず嫌いな心などから生じます。これは、進化論の思想や闘争哲学の毒害を受けていたからです。

 私は実際には自分自身を非常に優れた存在だとは本当に思っていません。時には自分の能力の不足に自己嫌悪することさえあります。しかし、現実の中で、自分自身の努力によって何かを手に入れたように見えることがあります。これらの経験は私を何度も罠に引き込んでしまいます。他の人より優れていると快感を感じること、他の人が挑戦的な態度を見せると、私の傲慢な闘争欲がすぐに爆発し、自分が他人より劣ることを受け入れられず、多くのことがすぐにできないことによって焦ります。

 この世で、多くの努力を積み重ねて成果を得ることができた後、幸福感や喜びを感じることは、過度にならなければ非難するほどのことでもないのです。ただ、私の頭は間違った錯覚や幻想を生み出し、他人よりも優れているからこそ得られる快感だと思い込んでしまいます。現在の私は既にそのロジックを理解したので、次に必要なのは徐々に自分の思考を変えていくことです。

 焦りや競争心、奮闘するといった感情が湧いてきた時点で、もう誤った前提条件に陥ってしまっていると思います。それはすべての人が同じ方向に進み、同じコースを進み、同じことをし、同じ任務を完成し、しかも別々に行動しています。しかし実際は、それぞれの人には異なる道があります。表面的には大きな違いがないように見えても、もし私がそれを見ることができれば、それらは確実に千差万別でしょう。闘争心を起こした時、私はまず、自分の道を外れて他人の道に走ったのではないかと冷静に考えなければなりません。

 一つのことを考えれば考えるほどプレッシャーが大きくなり、考えれば考えるほど縺れていくのであれば、きっと常人の観念を使って考えていると思います。これが私の現在のレベルでの認識です。修煉者は法理に基づいて問題を考えるとき、いつも道は進むにつれて広がっていく感じがします。もちろん私には捨てられる心と大忍の心を持つ必要もあります。

 先日、ある同修と一緒に大陸の人々に真相を伝える機会がありました。私たちは互いに面識がなく、彼の中国語もあまり上手ではありませんでした。しかし、彼はすぐに心を開いて私と交流できました。

 彼はいくつか気に入らないことがあると話しました。彼に対して、大陸の人々はいつも態度が悪いし、彼は私に対して嫉妬心を抱いているようで、なぜなら、私がよく出来ると思っているからです。私は彼に、「貴方が思っているほどよくできていないし、貴方が見たのは偽物かもしれない、嫉妬心は人に偽りを見させることがある」と伝えました。これらの言葉を他人を慰めるために使ったことに驚きました。これが師父が私に嫉妬心の問題を別の角度から見る機会を与えてくださったものであり、その道理を教えて頂いたと思います。もちろん、そこからもう一つの非常に重要な啓発を得ました。心を開き、コミュニケーションを積極的に行うことで隔たりを解消し、嫉妬心を和らげることができるということです。隔たりや疑心は嫉妬心が育つ土壌だと思うからです。

 嫉妬心を取り除くために、私は自信と決意を持ちながら修煉を続け、自分自身に心を開き、多くのコミュニケーションを図り、他人を尊重することを常に自分に言い聞かせています。

 怨恨心を取り除く

 私は常に物事の発展を把握することに慣れていて、どんなことに対しても心理的な期待を持っています。現実がその期待に添わないと自分が望んでいるものよりも劣っていると感じ、怨恨を抱き、他人を責める傾向があります。物事は私の思い通りに進むべきだと思い、他人が物事の進展に影響を与えたと考え、他人に嫉妬、憎悪、嫌悪のいずれかの感情が生まれます。

 私はいつも身体的或は感情的にどう感じるかに基づいて、物事に対して反応を示します。感情に引っ張られ、良いことがあれば喜び、逆に思った通りに行かないことがあれば怨恨を抱くのです。そして、この時、私の空間場の中に、もっぱら煽動する魔は、この情によって生み出された感受を利用して恨みの物質を作り、また思想業と因縁関係が生んだ恨みと一緒に私に押しつけます。

 徐々に、私は自分が感情に振り回されやすいことに気付きました。感情が揺れ動いた時、自分を冷静に考えるようにします。なぜ自分に喜び、恨み、心配、恐れなどの感情が生まれるのか、その本質を追ってみると、やはり、自分を常人と同じように見ており、修煉者として問題を見ることができていなかったことに気付きました。

 私は自分に強い怨恨心があることに気付いたので、修煉者として自分に要求し、力を尽くしてそれを排斥し続けています。最近数カ月で、比較的はっきりと怨恨心を取り除くことができました。この体験が2回ほどありました。

 一つは仕事が終わった後、チームリーダーが私をあてつけて非難しました。もう一つは心境が悪い時、大陸の人々に真実を語る際に罵られ続けました。後で考え返すとすべて些細なことであり、大したことではありませんが、当時は突然理由もなく暴行されたような感じで、怨恨の物質が私を相手に恨むようにさせました。私は法理を思い出すように努力しました。最初は怒りを抑えるようにし、後には相手を恨まないようにしました。しかし、思想業は野草のように狂って成長し、私の法を学ぶことを妨げました。私を励まし続けてくれた同修に感謝します。彼らの励ましの中で法を読み続けることができました。その過程で魔性が心の中と思想の中で爆発するのを強く感じました。法を読み始める時、心が乱れていましたが、私は全力でそれを抑えました。

 涙が絶え間なく流れるにつれて、徐々に本の中の以前に気づかなかった文章が強いプラスのエネルギーを噴出し、次第にこの魔性の物質をはっきりと感知することができました。おそらく拳よりも少し大きいくらいです。それはまだ一部のネガティブな感情を放出し続けていて、時には恨み、時には屈辱です。私はこの機会を利用してそれを排除して滅ぼしました。そして、法を読み続けているうちに、急に明るくなって、この物質は完全に取り除かれました。私の心はこの時この上なく爽快でしたが、涙は依然として止まりませんでした。これは師父が私を助けてこの怨恨の物質を取り除くプロセスを見たからだと思います。

 最近のもう一つのポジティブな例は、同様の出来事が起こる前に、もしかしたら耳障りな言葉が聞こえてくるかもしれない、その煽り魔がまた発作を起こしそうになると予感しました。自分がちゃんと修めて直したいと思っていたので、すぐにそれに気づきました。私は自分が気づかなかった問題を指摘されることを期待しています。これは私の修煉にとって求めたとしても出会えるものではない貴重な機会です。

 結語

 師尊の慈悲なる済度に感謝します。自分がまだ修煉できていないところであっても、いつも法の中、具体的な出来事の中、あるいは出会った常人や同修のところ、または他の場所で答えを見つけることができることに気付きました。自分の感情や好みに流されることは許されません。感情を揺さぶられるすべての人々と出来事を大切にすべきです。旧勢力の配置を否定し、心を開き、他人を尊重し、正念を持って師に従って法を正す道を正しく歩むべきです!

 師父、ありがとうございます!

 同修、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父著作『各地での説法八』 「米国首都での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/6/13/461893.html)
 
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