なぜいつも居場所を与えてしまう学習者がいるのか
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年8月28日】大法に縁を持って入って来た人の中の一部の人は、大法の修煉をせず、かえって大法の反対側に行ってしまう人がいますが何故でしょうか? 問題の根本は、彼らが修煉の真の意味を理解していないからです。それどころか、彼らが理解し、得意とするのは、人間の根本的な執着であり、彼らを心地よくさせるのは、名・利・情に重きを置いた人間の観念なのです。

 たとえ何十年も大法弟子の中にいても、たとえ盛んに大規模な真相を伝える活動に参加したと自称しても、大法に従って自分の人心の認識を完全に変えようとしない人は、真の修煉者になることは不可能であり、生まれ変わって高い修煉境地に達することもできません。このような特徴の生命にとって、上へと修煉することは非常に難しいです。

 真の修煉は生命の本質の変化であり、本当の内面の変化です。私たちの学法は心を静める状態で行うことであり、一種の落ち着かない状態ではなく、人心の軋轢の中で気にかかってどうしても忘れることが出来ず、後顧の憂いや、名・利・情のあらゆる雑念に駆られる状態の下での学法ではありません。私たちの学法は心を静めて師父の法理の悟らせと教えに耳を傾けることであり、私たちの本当の自分が善悪を区別させるためであり、私たちの内在の心性を昇華させることに関する道理を知るためでもあります。それによって、私たちを超常の方向へと導いてくださるのです!

 師父の慈悲に満ちた教えによって、私たちは人心とは何かがますます明確になりました。師父が悟らせて下さることによって、私たちは天に戻る奥義を見つけました。 師父は私たちに天に戻るための要領と天機を啓示して下さり、生命の次元が下がる真相を明らかにされました。師父は何度も教えられ、繰り返し私たちを目覚めさせてきましたが、愚かな生命は滅びることを厭わないのです! 修煉の本当の意味を知らず、師父の慈悲を知らず、今日の宇宙は前例のないスリリングな危険で肝心な時期であることを知らず、自分の「貴重な」人心、汚れた人心を掴んで放そうとせず、修煉を推し量り、修煉と師父を認識しているのです。あなたの放そうとしない人間の基準、あなたの固くなってしまった考え方の基盤はすべて、修煉における素人の浅はかさと「知識のなさ」の表れです。あなたの口はどれほど詭弁であっても、あなたはまだ自分自身を知らない幼い子供であり、あなたは自分の小さな人間の観念でさえ(嫉妬、名利、自我、傲慢、顕示......)克服することができず、喜んでそれらに左右され、それらの奴隷になり、無知の中で自身を壊滅し続けるのです。

 真の修煉者は、自分の真の生命に責任を持つことができ、師父の教えと悟らせに耳を傾けることができ、着実に自分の心を修め、次第に気高く、清らかで、超越的な存在となり、ますます低俗になる表層の空間でますます動じなくなり、最終的には完全に超越します。このように超越した心の状態は、比類なく神聖で偉大なものであり、人間のものにしがみつき喜んで奴隷になるような偽りの修煉者たちが想像する勇気もなく、決して理解することもできないことです。

 どうしても修煉の方法が分からない人たち、邪悪に利用され特別に按排してきた一部の人たちには、このような知恵はないでしょう。

 しかし、なぜ一部の学習者は、明らかに無能で、真の修煉者とはかけ離れた偽の修煉者に常に環境を与えるのでしょうか?

 私たちの修煉環境には、修煉そのものを理解していない人たちがいるからです。 このような人たちは、感情的な判断と人間的な認識だけで盲目的に崇拝しています。 このような人たちの修煉に対する理解は、まだ「興味のため」という感情的な段階であり、何年も修煉しているにもかかわらず、大法と師父を理性的に理解することの意味がまだ分からないのです。

 これらの人たちは大法に対して固苦しい理解しか持っていません。彼らは大法と師父に対する認識において依然として常人の模式から抜け出せず、人心とは何であるかをはっきり理解していないため、人心を用いて修煉と仕事を対処しています。大法を破壊する者あるいは特別工作者が現れるとき、これらの人たちは区別することができず、風の音が聞こえれば雨が降ると思い込み、感情的で愚かになります。

 だから真の修煉者は、どこから取り組むべきか、何を取り除き、何を昇華させるべきかを知っています。従って、厄介なことやトラブルに直面しても、言葉の衝突などに直面しても、うまくいかないあらゆることに直面しても、正しく対処することができます。なぜなら、それは真の修煉者の見識からです。彼は、それがすべて人間的なものであり、この人間的なものを取り除かなければ、神聖なものを手に入れることはできず、生まれ変わることもできないことを知っているからです。真の修煉者として、彼は理解し、苦を以て喜びとすることができ、もっと自分をきれいに洗い落とし、すべての人間の観念と執着を捨て去ることができるのです。

 偽りの修煉と悟りにくい者は、強い根本的な執着を携えながら学習者の中で振る舞っています。彼は天の高みを知らず、俗人の卑しく無能な言葉を誇りにしています。 人間の理で測り、人間の目で測り、人間の感性で師父と大法を測り、自分の極端な精神異常状態を放任し、人間の狡い考えでいわゆる動き、進展、内幕を観察しています。自分の極端な意見が否定されると、私憤を晴らすために、何の配慮も理性もなく情けないほどの邪念を生じ、さらに自分の「心の傷」で覆い隠そうとしています。なぜそれを見分けることができないのですか? あなたが本当の修煉者であれば、あなたの理性はどこにあるのですか?

 修煉者として、あなたは人間の観念や執着と共存しているなら、そこから抜け出せますか?

 彼らに環境を与えた少数の学習者は、自分自身も長期的に人間の執着に飲み込まれ、煮えたぎっているのです。本当に彼の人心を断ち切らなければならない時、彼は耐え難く、納得できなくなり、一緒に大法を誹謗中傷し師父を攻撃することさえ躊躇しなくなりました。実のところ、良くない生命は、強い執着を持って大法修煉の雰囲気に近づく一部の人を駆り立てるだけであり、その人たちにさらに人心を使い、大いに弁舌をふるい、自我を膨らませ、誰よりも大法を理解していると思い、最後に共に滅びるのです。はっきり言ってしまえば、あなたがいくら「分かって」いても、堕落した人間であり、知恵を持った高級生命の見識ではありません。しかし、理解しようとしない人、理解できない人は必ずいます。

 人心の模式で盲目的に煉っている人だけが、撹乱する人に環境を与えるのです。早くストップして下さい。

 以上は、個人の修煉の中で見た現象についての認識です。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/23/464506.html)
 
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