早く目を覚まそう
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 【明慧日本2023年9月2日】人心で問題を考えるということは、法の中に自分を置いていない現れです。つまり、自分自身を大切にしておらず、法や師への不敬、ひいては軽蔑でもあるのです。これは小さい問題ではありません。その状態に長く慣れていると、大きな危険を招くことになります。

 他の空間ではどれだけの生命が常に私たちを見つめ、あなたが大法の弟子としてふさわしいか、師父が説かれた法を受け入れて実践しているかを見ているのだと考えたことはありますか? それを気にしたことはありますか? 結果がどうなるか知っていますか? 法を正す最後のとき、自己中心的で自我の執着が強いことは、決して人間としてのメリットや「良さ」ではなく、本当の自分への背信と、自分に救いを求める多くの生命への裏切りであり、そして師父のご恩への感謝の欠如であると分かるようになるでしょう。

 1999年以降に大法弟子の環境に入った人のことはさておき、1999年以前に大法弟子の環境に入った人の中に、今日になってもまだ考えもせず、「子供の頃から働いたことがない」「○○を食べたらお腹を壊してしまう」「以前、腰や脚を傷めたことがある」「子供の頃から両親と対立し、両親に手を焼かせてきた」「小さい時から常人の○○の生活に憧れてきた」などのことを口にしたり、さらにはこれらを自分の常人の言動の根拠として弁解する人が未だに多くの修煉者の中に見られますが、これはすでにこれらの問題において自分を修煉者としてみなしていない現れです。人間の情に執着し、自分の損得にこだわり、嫉妬心、闘争心、名誉や利益への執着心、不平不満を訴える心、外に求める心、人のせいにする心など、これらの多くのことを放さず、さらには自己の一部と見なしている人がいます。あなたはいつから修煉を始めたのでしょうか? 師父はどのように説かれたたのでしょうか? なぜ師父の法を引用して自分に照らし合わせ、自分に要求しないのでしょうか?

 また、一部の人は、話をするときに常套句のように、常人、同僚、同級生、家族がどのように言っている、常人の理論は○○だ、と言っていますが、常人が話すことは法なのでしょうか? 例えば、嘘をつくことについて、現代の常人の理論では、嘘をつくことは「心が成熟した」表れであり、常人の社会生活では必要だとされています。中国本土の人々は、嘘をつくことは生存に必要なスキルとして公然と受け入れており、中国本土から提出された飛天学校への申込書ですら真偽の疑わしい内容が多く書かれたものが見られます。しかし、『轉法輪』では、子供に「利口になる」ことを教えないようにし、子供たちが悪い方向に学んでしまわないようにと教えています。私たち自身の指針として、どちらを選ぶべきでしょうか?常人を基準にすると、中国本土の1999年以降の人々は腐敗政府によって支配され、非常に成熟し、道徳的な制約のない「賢明」(自分の利益のためなら手段を選ばない)な人々になっていると言えますが、あなたは彼らの一員になりたいのでしょうか、それとも大法弟子の一員になりたいのでしょうか?

 人心、常人の念、常人の情は、「人間」が他人から何かを要求することは当たり前だと考えており、他人が自分のために何かをしてくれることが当然だと考えます。そのため、師父が自分を地獄から引き上げ、自分の業を消し、複雑な問題を解決し、常に自分を見守り、修煉者の心性を表せば自身の境地を高めてくれるのは当たり前だと思ってしまうのです。一方、得られないときに外に向かって不平を言うのも、長い間積み重ねられた人心、常人の念、常人の情によるものであり、決して大法弟子の真の念から来るものではありません。

 日常生活において、日々人の考えが主導し、外に求め、人のせいにするのが人間の状態です。真の自我を投げ出し、自分を捨て、人間としての状態になってしまったのです。法を正すことが終わりの時期になった今、どのようにして衆生済度の誓いを果たすことができるでしょうか?

 毎日遭遇する人や出来事に対する最初の考えは、人心、常人の念、常人の情なのか、それとも法の要求なのか? 内に向けて探しているのか、それとも外に向けて探しているのか? これが「人間」と「修煉者」の状態を最も明確に区別するものです。修煉中の人は100%達成することは不可能であり、そうであれば修煉する必要がなくなります。しかし、達成できなかったとき、自分が修煉する中で気付くことができ、気付いた後で人間としての考えを速やかに放棄し、自己を正してこそ修煉者と言えるのであり、それでこそ師父が大事にしてくださったご恩に応え、師父が一人ひとりに黙々と行ってきたことにふさわしくなるのです。

 後天的に付着した人心、常人の念、常人の情をどのように認識し取り除くのでしょうか? 真の念はどこにあるのでしょうか? どうすればそれを表面に表すことができるのでしょうか? どのようにすれば真の念が自分を主導できるのでしょうか? これは私たち修煉者が毎日直面している課題です。

 一部の人は古くから大法を修煉し、年数で言えば「古株」だと感じており、そのため何に対しても口を出し、まるで何でも理解しているかのように振る舞います。常人の世間話に夢中になり、飽きることなく喋り続け、大法に関する話が出ると、自分が何か「良いこと」を得られるのかとすぐに考え、自分の損得のために条件を要求したり、人心と常人の情の視点から自分の損得のバランスを取ろうとする人がいます。目の前にあるトラブルを見て何を修めたのでしょうか? あなたは本当に修煉しているのでしょうか?

 古代、学校に通う際には、師を尊重し、道徳的に優れた品性を持つよう努力することが求められました。しかし、近年、常人は学費を支払ったからと言って、学校や教師が自分に卒業資格を授与し、学位を授けるべきだと考えるようになりました。社会は既に非常に腐敗しており、底を突いてしまっています。このような認識を基準にした場合、私たちはどのようにして法に立ち返ることができるでしょうか? どのようにして帰還するのでしょうか? 師父が私たちを天国に帰還させることは当たり前なのでしょうか? 自分自身がどれだけのことを行い、どれだけ後天的な汚染を捨て去ったのでしょうか? それは新しい宇宙で師父が私たちに提供しようとしているその位置に相応しいのでしょうか? これは、真に修煉して返本帰真を望むすべての人にとって、理性的に考えなければならない問題です。

 厳しく言っているようですが言葉の表現に重みがあるのではなく、事柄自体の重大さに重みがあります。古代の言葉では「よい薬は飲むと苦いが、病を治す効力がある。忠言というものは、素直に聞けないが、役に立つものである」と言われていますが、現代の人々は人間関係を重要視します。古代の東洋では、交通が不便で遠方の仏教の教えを得るために、自分の命を捨てることを約束する人がいました。西洋でも、都市の人々を教えに導くために、自分の皮膚を剥ぎ取ることを約束する聖者がいました。今では、法を得ることは非常に簡単で、師父は私たちを見つけるためにあらゆる方法を駆使し、私たちが輪廻転生する中で作った罪業を代わりに背負い、大法を通じて私達を浄化し、高めてくれました。それにもかかわらず、私たちはそれを真に大事にしていません。これは大きな報いをもたらしかねません。それが私たちの望むものでしょうか? 真に修煉している同修であれば早く目を覚ましましょう。法の外にいる者は誰もいないのです!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/1/464831.html)
 
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