全面的に自分の修煉状態を省みる
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文/江蘇省の大法弟子

 【明慧日本2023年9月12日】師父が連続して発表された二篇の新経文『険悪を遠ざけよう』と『大法修煉は厳粛である』を学んで、私は目が覚めました。以下では自分の僅かな悟りを書き出して、同修の皆さんと交流したいと思います。

 私は1999年以前に修煉し始めた古い大法弟子で、法を得た当初の喜びは今でも忘れることができず、自分が世界で最も幸せな人間で、全宇宙で最も幸運な生命だと感じていました。法を真剣に学び、法の要求に従って実践し心性を高めていく中で、思想の境界も絶えず昇華し、すぐに病が一つもない健康な状態に達しました。

 1999年の「7.20」、邪悪による法輪功へ弾圧が始まった直後、私は慎重に考え、「法輪大法は真の高徳大法であり、師父は法を正し、全宇宙の衆生を救うために来られている」との認識に至り、周りの同修と一緒に師に従い、迫害に反対しながら衆生を救い、大法を実証する道を歩むことにしました。その間、私は職場、派出所、区や市の公安局、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)、610弁公室、政法委員会などに何度も呼ばれ、嫌がらせを受け、給料を減らされ、洗脳班や留置場に入れられました。また、大法に符合したときに現れる奇跡や、衆生を救うことができたときの喜びを経験したことがあり、躓いたり回り道をしたり、良くできなかったときに落胆し、悔しさや後悔を覚えたことがありましたが、転んでも起き上がって前進し続けてきました。当時、私は自分を緩めたことがなく、常に師父の要求に従って三つのことをよく行うように心がけ、やがて大法の中で自分を正すことができ、しっかりと歩んでくることができました。

 しかしその後、環境が緩くなるにつれて、私は自分を緩めて法をあまり勉強しなくなり、安逸心に駆られて精進せず、修煉できる時間がまだ残っていて、しばらくは終わらないだろうと思い、常人の生活を送り始めました。学法しても法が頭に入ってこない状態がしばらく続いた後、昔の病がまた体に戻ってきたような気がして、物事を常人の心で量ることが多くなりました。自分自身も苦しみ、精進しようとしてもできず、ここ数年、自分は危うい瀬戸際まで来ていると感じていました。

 『険悪を遠ざけよう』の中で、師父はこのようにおっしゃっています。「一部の人は大法弟子の環境に身を置いたのですが、真に修めておらず大法に入ってきていません。肝心な時、いつも人心、人間の念、人間の情をもって物事を量っています。自分が大法のために何かを行なったとか、自分が大法のためにいくらかの努力を払ったなどと言う人までいます」

 また、『大法修煉は厳粛である』の中で、師父は「修煉のできた人は功成って圓満成就し、新宇宙に帰り、自分の天国世界を主掌します。修煉が成就できなかった人、誓約に違反した人、大法に罪を犯した人は、必ず命と引き替えに交わした約束を果たすことになるのです! ただ、慈悲深い師父はずっと機会を与えています。このような人は恩に感謝するのではなく、ひたすら執着を掴んで離そうとしません」とおっしゃっています。

 学法後、驚愕させられました。私は必ず気持ちを奮い立たせてきちんと修煉し、自分の使命を全うできるように努力し、誓いを果たします。

 内に向けて探した結果、以下の執着を取り除きたいと思います。

 一、時間に対する執着

 私には、修煉が早く終わってほしいと期待しつつ、終わることを恐れる気持ちがあります。二十数年迫害に反対する中で、長い間高圧的な環境にいたため、心理的に抑圧され、時には嫌がらせを受けると、迫害されることを恐れ、早く終わってほしいと願っていました。一方、自分の修煉がまだまだ基準に達していないと思い、終わることを恐れる気持ちもありました。これらの考えの基点はすべて自我であり、師父が多大な犠牲を払って引き延ばして下さった時間を大切にせず、自分をよく修めることや、衆生を救うことに全力を尽くしていませんでした。

 二、無神論による毒害

 私は天目を通じて多少のものが見えますが、目で見たものが確実だという観念の影響で、時には疑念を抱き、100パーセント師と法を信じていません。疑いの念が生じたとき、私は瞬時にその念を捉えて排斥し、それが本当の自分の念ではないと考えて正念を発して滅し、師父にも加持を求めましたが、心の中ではとても苦しかったです。

 三、党文化の要素

 物事に遭遇したとき、私は他人のために考えることができず、常に自分の観念を持って他人を量り、他人が自分より優れていると嫉妬し、劣っていれば見下し、とにかく常に自分を高い位置に置いていました。

 四、20年以上修煉しても、基点は常人

 私は物事に対する見方や考え方、そして思惟習慣はみな常人のままで、大法の法理を用いて量ることができず、苦労や魔難を良いものと思わず、常に人間社会で「快適に」暮らすことを望んでいました。

 五、人間の次元で放下できない執着

 例えば、嫉妬心、利益や名声を求める心、闘争心、顕示心、口を修めず、自己中心的などです。ある日、明慧ネットで同修が自分の根本的な執著を見つけたという交流文章を読み、自分も探してみようと探してみましたが、見つけることができませんでした。師父に啓示を求めたところ、突然、「金銭、名利、身分地位」という一念が脳裏を掠めました。「あ、これが私の根本的な執着なのか? これでは、まだまだ人間に執着しているということではありませんか? あまりにも大きな差が開いている!」と私は思いました。

 師父が連続して発表された二篇の経文に、私は大きく震撼させられました。法を正すことが最後に差し掛かり、私たちは人間のものを放下し、人間から抜け出し、神にまで成就しなければなりません。時間を惜しんで自分をよく修め、衆生を救い、神聖な誓いを果たし、師父について家に帰りましょう。妥当でない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/5/464910.html)
 
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