師父の新教文を読んで 自らを取り戻す
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2023年9月14日】私は師父が二日連続で出された経文を読んで、自責の念に苛まれています。師父の経文は海外で何人かの人が法を乱したことに言及されましたが、経文が明慧ネットで発表された以上、すべての大法弟子は自分自身にも多かれ少なかれ同じ問題があるのではないかと反省すべきだと思います。

 ここで私が感じたことを皆さんと共有したいと思います。

 一、あの人たちの法を乱す行為

 師父は『轉法輪』で、すでに類似した行動の特徴と結果について指摘されました。師父はすべてを掌握し、すべてをわかっておられます。早い段階でそれを予言し、気を付けるように忠告してくださいました。 ただ、私たちが愚かでそれを悟らなかっただけです。

 自分自身を振り返ると、私は師父のことを恨んだことはありません。しかし、疑問に思ったことはあったでしょうか? もちろんありました。私たちの修煉が基準に達していないため、法を正すことの終了時間を毎回、師父が遅らせてくださったとき、まず思ったのは「時間がまた変わったのですか」ということです。時間を遅らせたことには師父なりの理由があり、今の自分の心性では圓満成就できないことや、自分が救い済度しなければならない衆生をまだ全部救っていないため、この世から離れることができないとすぐ悟ることができますが、一秒たりとも師父に対して疑念を抱くべきではありません。真に修煉し師父を百パーセント信じている弟子は少しの疑念を持つことはありません。 師父が望まれることは弟子が望むことであり、師父の要求を、全身全霊で実行し、 わずかな迷いもなく遂行するのが、合格した弟子なのです。

 疑念は師父への不信の始まりであり、法を乱す者への師父の棒喝を通じて、私たちは師父を信じきっていない心を修正しなければなりません。

 二、明慧ネットに対する姿勢

 明慧ネットは、神の道を歩む私たち大法修煉者のための浄土です。 その重要性、独自性、特殊性については紹介するまでもないでしょう。 しかし、私自身は毎日、明慧ネットを見る時間は、大紀元や新唐人などのウェブサイトを見る時間よりはるかに少ないのです。 明慧ネットの迫害に関する報道もざっと目を通す程度です。 師父の経文を読んで、明慧ネットへの認識や気持ちはあまりにも不足していると気づかされました。 迫害に関する報道は、同修が受けた迫害の状況をまとめたものであり、末後の時期にいる人々を救うことに深く関わっているのに、他人事のように無関心ではいけません。 少なくとも、邪悪を取り除くために正念を発することができます。 自分に関係ないことに無関心であるというのは、真の大法弟子がとるべき態度ではありません!

 師父は「重大な問題について明慧ネットの態度に従うべきだ」とおっしゃいましたが、これは明慧ネットの重要性と特殊性を明確に示しています。 明慧ネットへの態度や明慧ネットをどのくらい重要視しているかは、私たち自身の修煉状態を如実に反映しています。 明慧ネットにアクセスすることは必修です。今の私は明慧ネットを斜め読みして、国内外の一般的なニュースに強い好奇心をもち、修煉とは関係ない情報に8割の時間を費やしています。そろそろ外に向けて求めるこの好奇心を直さなければならない時期がやってきました。

 三、人々を救い、法を実証するためのプロジェクトに対する態度

 真に修煉する大法弟子は皆、この24年間で、語り尽くせないほど多くのことを経験してきました。その出来事の大きさは関係なく、どれも尊いものです。 師父の経文を学ぶまで、私は心の中で「自分は貢献した」という私心を持っていましたが、今はそれは神の手柄を自分のものにしようとする貪欲の心だと気づきました。 私たちの修煉環境、人々を救うための環境、周りに現れた人々、人々を救うための道具も、人々を救うために必要な社会地位も、すべて師父がずっと事前に整えてくださったものです。 私たちはただ口を動かし、そのことを遂行しただけです。 何を自慢し、驕ることがあるでしょうか。 もし師父が大法を正そうと思えば、手を振るだけで完成してしまいます。 大法に対する世の中の態度を変えようと思えば、思いを巡らすだけでできてしまいます。それなのになぜ、師父は苦労してこのすべてを私たちに与えてくださったのでしょうか。私たちを成就させ、私たちが代表する天国の衆生を救うためです。

 師がこの世で耐え忍んでおられるすべては私たちのためです。師父はほかにも私たちのために代価を払い、私たちの業を滅するために巨大な損害を受けておられます。このすべては私たちが知らないことであり、これからも知らないでしょう。 善を修める弟子は悟りが低くてはいけません!  私たちが行ったすべては自分の本分に過ぎず、自慢したり自惚れしたりしてはいけません。 私たちが常に考えるべきことは、いかにして自分の執着を取り除き、衆生をさらに救うかのことです。

 最も謙虚で無垢な状態に戻りましょう。長い間修煉してもまだ傲慢と自我に満ちているこの現状を、師父は好ましく思われないのです。 師父と大法がなければ、私たちや私たちの衆生はとっくに宇宙の塵や砂になってしまっていたでしょう。

 四、少数の人の言動に振り回されない

 前述したように、師父が経文で言及された彼らのことは、師父はすでに予見しておられました。 金は決して砂に流されることはありません。 師父は「一人だけが修煉して成就したら、私はその人に宇宙を成就させます」(各地説法三『大ニューヨーク地区での説法』)とおっしゃいました。 師父が望んでおられるのは基準に達した正真正銘の弟子であり、基準に達していない人の数合わせではありません。 私たちがまずすべきことは、自分自身をしっかり修煉することです。

 五、真に修めることについて

 真の修煉は自分自身の一思一念にかかっていると思います。 よく考えてみてください。私たちが当たり前のように交わしている日常の会話の中に、どれほどの執着が含まれているでしょうか。その数があまりにも多いため、私たちはすでにそれに気づくことができなくなりました。

 例えば、私の母は高齢で耳が遠いので、大きな声で話しかけても聞こえません。 私はいつも、すぐに苛立ち、母に近づいたりせずさらに大きな声を出してしまいます。 この魔性を即座に抑え、母に歩み寄って話しかけることができれば、私はこのことに関して本当に修煉したことになります。

 もうひとつの例ですが、餃子を食べるとき、何も考えずに酢とラー油をたっぷりかけて味への執着を満たしてしまうのです。 ほかにも、自然に行動してしまい、これが修煉だと気づいてないことが多々あります。

 私は最近、長年のこだわりを本当に捨てた時、その日の法の勉強が義務ではなく、効果を感じ法理を悟ることができました。 師父は何度も、心性を高めよ、心性を高めよ、心性が高まってはじめて法が現れてくるとおっしゃいました。 もし同修が、いつも法を学ぶときに心に響くものがなく、悟りがないと感じているなら、 自分のさまざまな習慣の背後に良くない執着が潜んでいないかと探してみてください。試しに一つの執着を放下すれば、法を学ぶときに心に響くものを感じることができるはずです。このように続ければ、絶えず更に深い次元の法理に気づくことができるでしょう。

 以上は師父の最近の説法を学んで感じたことであり、同修と共有して最も強く悟ったことです。 もし法に則っていないところがあれば、ご指摘いただければ幸いです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/8/465061.html)
 
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